梅安亭日乗

「TOKASUどこか遠い空の下で」を改め「梅安亭日乗」としました。

Leticia(レティシア)  

11月13日〜11月18日まで 2001年

11月13日(火)朝、曇り。

レティシア−4


朝一番に近くのLavanderiaへ洗濯物を出しに行く。3キロ近くあり、4500ペソ=1.9ドル。

ツーリストオフィスに行くが地図はもらえず。Amacagucaへの予約をCorpoama Zonia でする。2泊食事込みで2000ペソ。デズカウント期間とのことで半額。後、往復の船代がいる。

さっそく船会社へ切符の予約に行くが、休み。その後乗船場所を確認に行くがわからずじまい。Tapatingaとの国境まで歩いてしまう。
レティシアーウルブー?(黒コンドル)


昼は隣の店で、ランチ弁当、スープ、飲み物を買う。3500ペソ=1.5ドル
夕方、Correoを探し回るが見つからず。いろんな人に聞いたが、わからない。

TapatingaへCorrectivoで行く。片道1000ペソ。Tapatingaの市場と港もそれなりに雰囲気があり、おもしろかった。

夜、昨夜と同じ店でPincho2本とビール3本で9100ペソ=4ドル。

部屋と道路に面した側から、中庭(これが広々とした庭で熱帯らしい樹木が繁茂している)に面した部屋に変わる。ずっと涼しくなる。ただ、こちらは夕方の鳥のさえずりがすごい。まるで轟音だ。

夜は涼しく快適に眠れた。一時停電あり。


11月14日(水)晴れ

<今後の予定>
11/15~17 Amacaguca ナショナルパーク(自然保護区での滞在)

11/19 →Bogota

11/25 →Quito

12/10 →La Paz

12/20 → Chile

12/25 → fuego島

12/29 →Buenos Aires

1/1 Buenos Aires 出発

・快適な朝。シャワーを浴び、洗濯物をLavanderiaへ。3500ペソ=1.4ドル。
女の子が僕のことを覚えていて、「昨日も着ただろう?」と聞いた。黄色の派手なサングラスをはずして自分の顔を見せてくれた。なんとなくわかる。右目が腫れていてサングラスをかけているそうだ。愛想の良い娘だ。

・CorrectivoでTabatingaのpoliceへ行き、出国スタンプをもらい、次にLaticiaの空港(ホテルの裏にあるDaxではない)へmoto taxiで行く。所持金、クレジットカード、オンワードチケットのことなどを聞かれる。職業を聞かれたのでProfesor de historia などと適当に答えておいた。一ヶ月のビザをもらう。

・帰りにタクシーに乗り(3000)明日の乗船場所の確認に行く。
レティシア−8


・時計を54レアルで買う。カシオだった。

・やっと郵便局が見つかり、 Nさんあての葉書を出す。日本まで2200ペソ

・昼食は「El Sabor」
ここはうまい。肉をたまねぎとトマトで炒めたのに白飯。バナナのフライが一皿とパパイヤジュースで4000ペソなり。
レティシアー5


・5年前にペルーで買ったパンの木の繊維で作った網袋を買う。

11月15日(木)Amacayacu

・朝8時にAmacayaca行きの船の切符を買う。20000ペソ。
・昼は「El Sabor」で牛肉の炒め物。4000ペソ。

・2:00の船でAmacayacu へ。1時間25分ほどで着く。途中小ぶりの雨。
ネイチャリングの取材でカリマンタンのマハカム川を遡行したときを思い出した。あの時は確か、6時間ほどの船旅でしかもすごいスコールに見舞われた。
・蒸し暑く、蚊がやたら多い。ぞうりでやってきたことを後悔。足元を集中的に刺される。

・夕食をとって床につくが、夜中下痢で2度ほどトイレに行く羽目に。体調は最悪。

国立公園の夕景
国立公園での夕景



11月16日(金)昼過ぎスコール

7:30の朝食後、近くの森を一巡。樹木についていの講義。

10:00対岸の島へ。ラグーンが3つほどある島で、ラグーンめぐりを行う。風邪をひいているので、節々が痛く投げ出したくなる。

ここはイキトスとかマナウス、あるいはパンタナルとは違ってこれといってみるものがないのだ。わずかに淡水エイをチラッと見たことぐらいが収穫か。

シエスタ→その後風邪が少し良くなる。

夕方、スコール その後涼しくなるのかと期待したら、とんでもない。ここの夕方時は最悪で、ムッとする湿気と蚊の攻撃。あまりにかまれすぎで音を上げそうになる。

11月17日(土)→Leticiaへ帰る

7:00朝食
8:00出発→9:30着
<Amacayacuの出費>
滞在費            20000
食費             25000
ボート            35000
ツアー            16000

合計             96000=41ドル
大した収穫がなかったわりに高すぎだった。しかも蚊に悩まされた。

Leticia
ホテルは例のSan Franciscoにしようと(荷物も預けてあったし)行ってみたが部屋が例の日差しのきつい部屋しか空いていなかった。やむなくHostal Fernandoに行く。Airconつき冷蔵庫、テレビはもちろん部屋代もかなりのものだが・・・・35000=15ドルとお高い!
・昼は「El Sabor」夜は「A.ME.K.TIAR」例の角の店。Pincho2本とビール2本で7400ペソ=3.1ドル高級店だ。

漁師ーレティシア

レティシアー物売り


11月18日(曇り)

快適な一夜。しかし2万ペソも高いので、元の宿San Franciscoに交渉に行くが、満室で断られる。残念2日で4万ペセタ!

「El Sabor」でFugoを注文。(昼)maranonという果実で初めての味。スープと焼き飯で5000ペソ。

夜はいつもの角の店でビール2本、サラダ、pincho で13000ペソなり。

<Bogota>情報整理

2800メートルの高度。昼暖かく夜は寒い。月間平均気温14℃
両替は9:00~3:00  (月~金)
The Banco Angelo Colombian
Carrera 8 No15-60 トラベラーチェックのレートが一番良い。(ましという意味)ほかは両替屋 Carrera 7 No17-01 No26-62

空港からのアクセス: 2箇所あるので注意。「El Drado」は13キロ北西。「Puente Aero」は1キロ手前。Calle 19 かCalle 10 でAeropuerto と書かれたbusetaでいける。タクシーはUs$6


category: コロンビア

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Bogota(ボゴタ)  

11月19日〜20日まで2001年・・・ボゴタ滞在



より大きな地図で レティシアからボゴタへ を表示




11月19日(月)曇り

朝一番に郵便局へ。友人へ手紙を出す。後で確かめたら誰一人着いていなかったようだ。

昼は定番の「El Sabor」が休日なので隣のレストランへ行くが、まずい。その上、おばさんがうるさくて落ち着かない。あのご飯で4800ペソ=2ドルも取られる。

ホテルに交渉して5000ペソ=2.1ドル払い、3時までの延長を認めてもらう。おかげで一眠りができ体調も快復

15時飛行場へ

レティシアは居心地の良い町だった。しかし、ここに1ヶ月もいれば退屈で死にそうになるだろう。

19:00ボゴタ着。途中の飛行機は雷雨の中を飛んでいて結構揺れた。LeticiaからBogotaへの飛行経路は、コロンビア革命軍(Farc)などの武装ゲリラが活動しているジャングルの上を飛んでいるのだった。このゲリラ組織は長年、武装闘争を展開していて、他の中年米のゲリラが壊滅した中で、兵力1万以上と強固に存在し続けている。ガルシア・マルケスの「誘拐報道」という小説にも出てくる。


タクシーでホテルへ。15000=6.4ドル
Hotel Turistico de Santafe  Calle 14 .No4-48  20000=8.5ドル
まるで学校のような建物で部屋数もかなりあるようだ。超クラシック、でも部屋は清潔だし値段もリーズナブルだ。
20:00 夕食。チキン1/4  魚スープ、白飯 6000=2.5ドル
注文を間違えた。みんなはスープとご飯だけだった。チキンが余分。

空港についてタクシーの運ちゃんとのやり取り。彼は本に書いてある通り「そんなホテルはないよ」と言った。でも意外と親切だった。車からザックを出し、ホテルまで運んでくれた。
物騒な首都、誘拐だらけといううわさ。僕は用心してホテルからすぐ近くの食堂に行った。まだ、人通りがあるんだけれど、どこか暗く寂しい。
ホテル代とか食費とかタクシーなど、ここが首都にしては、ずいぶんと物価が安い。地方都市のLeticiaのほうが高いくらいだ。

かなり寒い。室内で19℃、外は14℃くらいか。あの高温多湿のLeticiaから一気にやってきたのでよけいに寒く感じるようだ。
いままでお荷物だったトレーナー・パーカーが俄然役立っている。

11月20日(火)

5時起床。室温11℃。寒い。トレーナーさま様だ。

最初にPlaza Bolivarへ行く。修復工事中なのとちょうどポリシアの記念行事とでシャッターチャンスなし。近くの通りは色彩鮮やかなので驚く。

Corro Monserrate
Teleferico(ケーブルカー)で頂上を目指す。駅から先は歩き。息を切らして歩き続ける。帰りはロープウエイに乗る。誘拐とか強盗の話しを思い出し、緊張しながら歩く。名所なのに人通りが少ない。

空港へタクシーで行き、明日のQuito行きのチケットを買う。185ドル=435000ペソなり。
帰りはバスに乗ってみたが、うまくセントロで下車できた。迷わずにホテルに帰れた。

昼食:フレンチスタイルビーフステーキ(ミニ)、サラダ、ライスで4000ペソ=1.7ドル。これは値打ちだった。

category: コロンビア

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ベネズエラを出てコロンビアへ  


12月27日(日)サン・クリストバル~サン・アントニオ~ククタ~カルタヘーナ行きのバスに乗車

朝、8時ごろ、サン・クリストバルのバス駅に向かう。
前日見ておいたサン・アントニオまでの乗り合いタクシー乗り場に行くと客はまだ集まっていなかった。
そのとき、気の弱そうな若者が近寄ってきて、5,000Bs=870円でサンアントニオまで行くいう。
前日調べた乗り合いタクシーの値段は3,000Bsだったので、断る。

すぐ近くのスタンドでエンパナーダと珈琲の朝食をとっていると、再びその男が来て、「自分の場合はイミグレで出国スタンプを押した後も車で国境まで送る。乗り合いのタクシーは3,000Bsだけどイミグレまでだ。しかもこちらは貸し切りなんだ」と相変わらず心細げな口調で話しかけてきた。白タクのようだけど、どうやら悪人ではなさそうだ。
貸し切りときいて、彼の提案に乗った。

彼について車まで行くと、彼の車は例のポンコツのアメ車だった。
てっきりその車で行くのだと思ったら、もう一台の車で行くという。再び彼について行くと、こちちらも負けず劣らずの超おんぼろのアメ車だった。
「僕のオヤジです」といって「この車で行ってください」と言った。
親子でやっているということだ。(本当かどうかはわからないが・・・顔は似ている)

親子タクシー サンクリストバル



オヤジさんは日に1,2回サンアントニオとの間を往復しているという。
60何歳といっていたから、一日10,000Bsを稼ぐこの仕事はそういう意味ではいいシノギだ。
オヤジは顔だった。サンクリストバル


走ること、1時間半ほど。
オヤジはこの辺の顔でいろんな人と途中、挨拶をしていた。

警察の検問も数回あったが、顔パス。
途中で買ったオレンジなどを差し入れしていた。


手前がサン・アントニオ(ベネズエラ)、はるか向こうに霞んで見えるのがククタ(コロンビア)
手前がサンアントニオ 向こうがククタ コロンビア




そしてSaiime(役場とかの意味で、ここではイミグレ・オフィス)で手続きの間も待っていてくれて、手続き終了後、国境まで運んでくれた。

いい選択だった。


オヤジと別れる。このアメ車で来た。けっこう馬力があり、途中、ほかの車を坂道で追い抜いていた。
オヤジに礼を言って別れた サンアントニオ


国境越えはあっさりとしたものだった。


そして、そのとき自分の前にいたバレンシア在住のスペイン人が、コロンビア側の橋のたもとでタクシーを捉まえて、ククタまで割り勘で行くかと言ったので好都合と了承した。
ところが、スペイン人ということですっかり信用してしまったのだが、彼は値段も決めていなかった。
ひとり7500Cop=330円だった。高いか安いのか分からなかった。


タクシーの運転手と談笑するバレンシア人。けっこう軽い男だった。
スペイン人とタクシーの運転手 ククタ


コロンビアの通貨を二人とも持っていなかったので、運転手にククタのバス駅の両替所に連れていかれた。
ここでベネズエラのBsをコロンビアペソに両替した。タクシーの運転手のコミッションが入っているのでレートは悪かった。

ついでにバスのチケットを買ってやるからという話を断って、自分でチケット売り場に行った。

チケット売り場を探していると、ここがカルタヘーナの行きのチケット売り場だという男に誘導されて、バス駅のなかにある事務所に案内された。
こちらにきてくれと言われて、事務所の奥の部屋に連れ込まれた。(ここで、怪しいと気付かなかった自分がバカだった)

事務所の奥で、相手の男は備え付けの分厚いノートを取り出し、名前や生年月日、パスポートナンバーを記入した。そして所持金を申告するように言われた。ほかの人の欄には金額が書かれていた。
なんだか変なので、所持金はない。これからボリバールをペソに替えるところだというと、ここで両替できるので、ついでにここで両替したらどうだ、といってきた。
まあいいかと、手持ちの残りの3万Bs=5,200円ほどを両替することにした。
1万Bsが3束。
それを男は数えだした。

よく見ると機械があるのに、手で数えている。
マキナを使わないのかと訊くと、後でだ、という返事。
なぜ、後なのかという疑問は、この時点では持たなかった。(間抜けだね)

そして、男が札を数えていたのだが、突然、足元に札束が散らばった。
手を滑らしたのかとおもい、それを拾い、男に渡した。

そして、勘定を終えた男が、おもむろに機械に金を入れた。

パラパラと音がして数えていくと、なんと3万Bsあったのが、2万7千ほどしかない。
「おかしいじゃないか」というと
機械を再度操作してみせ、この通りだと言い張る。
呆れていると、なんども同じ操作をしてみせるのである。
3,000Bsほどが、札束が床に落ちた時に抜けれたのだ。
500円ほどの被害なので、相手の事務所に留まるのはよくないと思い、「すばらしい、マジックだね」と皮肉を言って外に出た。

バスのチケット売り場でもなんでもなく、単なる両替所だった。正規の両替所はちゃんと窓口が通路に面してあるのだが、奴の場合は旅行代理店を装った詐欺の専門の両替所のようだ。警察もよくこんな事務所がバスターミナルの中で堂々と不正をしているのを放置しているものだ。
相手の男の稚拙な詐欺に対してよりも、自分の迂闊さに腹が立った。
疲れていて判断力がなくなっている。気を付けないと自分を戒めた。


本物のカルタヘーナ行きのチケット売り場は2か所もあった。
バスのチケットを購入。
このバス14時発で、4時間近く待った。
バス代が6,800円とけっこう高いので驚いた。


カルタヘーナ行きのバス
このバスがいちばん良いバス  ククタ








ククタのバスターミナル前
ククタのバス駅前




ククタのバスターミナルのなか。
ククタのバス駅内




ククタバスターミナルのなかの売店。コロンビア美人
コロンビア美人 ククタ駅

category: コロンビア

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カルタヘーナへ  


2015年12月29日(火)

国境の町・ククタからカルタヘナへバス移動。
午後の3時過ぎに出発して、カルタヘナには翌朝の8時に着いた。バンキージャ経由で時間がかかったようだ。




ククタ発でいちばん良いバス。
このバスがいちばん良いバス  ククタ




きっちり着込んでいたので、冷房は問題なかったのだが、席が狭くて翌日から腰痛になった。
寒かったがきっちり着込んでいたので・・席がカルタヘナ1




ククタを出て日が暮れるまで、急峻な山道だった。その後は寝てしまったので、道が平坦になったのに気づいたのは、バンキージャの近くだった。
急峻な山道を行く カルタヘナ3




高度は2000メートルほどと大したことはなかったのだが、山の斜面に無理やり2車線の道路を作ったという印象だった。
急峻な山道2 カルタヘナ4




それでも幹線道路なのか、大型のトラックと何度もすれ違った。
狭い道でなんども大型トラックとすれ違った カルタヘナ5





土砂崩れの現場も数回見た。
土砂崩れ カルタヘナ6




午前7時ごろ、目が覚めると朝日が昇っていた。
翌朝の日の出 カルタヘナ7





Hotel Casona・・・ロンプラで調べておいた宿。運のいいことに1室だけ開いていた。
カルタヘナはコロンビアでいちばんの人気スポットで、年末年始は観光客が押し寄せるという。
そんなことは露知らずにやってきてしまった。
ホテル・カソーナ・・・32ドル!高っ! カルタヘナ8




この部屋だが、2階の隅に建て増したようだ。壁が隙間だらけ。狭いのと真っ暗。それで、値段は32ドルもした。
とにかく部屋が確保できただけで幸せだと思わなきゃいけないと納得。というのも、チャックインの後、近所にある安宿を何軒も当たってみたが、どこも満室だったのだ。
カソーナの部屋は・・・カルタヘナ9




ここは安宿街で近所に大衆食堂がたくさんあった。バンコクのカオサンをイメージさせる。Calle Tripita y Mediaという通り。
すぐ近くの食堂で魚定食  カルタヘナ10




海に近いということで、魚定食を頼んだ。ドラダの丸揚げだが、脂っぽくなかった。
魚定食 カルタヘナ11




category: コロンビア

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カルタヘナ散策  


カルタヘナにきたのは、そこでマグダレナ川の河口に出会えるのではないか、なんてとんでもない見当はずれの考えからだった。

着いてから地図を調べると、マグダレナ川の河口は、カルタヘナではなくバランキージャのすぐ近くにある。




自分が、なぜ、マグダレナ川にこだわっているのかというと、ガルシア・マルケスの「コレラの時代の愛」の映画で出てきた川をを見てみたいと思ったからだ。
岸辺をマングローブが覆い繁るなかを蒸気船がゆったりと遡上する大河って、どんなのだろう?

コレラの時代の愛


というわけで、マグダレナ川が見ることができないなら、カルタヘナにきた主な理由はなくなっていた。



そうは言っても、宿代も2日分払ったことだし、することもないので、ぶらぶあらと街歩きをした。


カルタヘナの観光ポイントは、
スペインの植民地時代に作られた城砦とそのなかのコロニアルな建築物群だそうだ。

スペイン植民地時代、南米各地で強奪した金銀、とくにポトシ銀山の銀などをここからスペインのセビージャに搬出していた港だという。


ウィキペディアの記事。太字の部分をクリックすると元記事へジャンプします。
カルタヘナ (コロンビア)


ところが、スペインが簒奪してきた金銀を狙う海賊が近海を跋扈していて、たびたびカルタヘナの町は襲撃された。
その海賊対策として城砦が堅牢に作られたのだが、その工事は奴隷たちに課せられていた。
カルタヘナは奴隷貿易港でもあったのである。

金銀の強奪・略奪、海賊対策としてアフリカ黒人奴隷を酷使して堅牢な城砦を建設する。

まあ、スペイン人植民地主義者というのは、いわばスペイン国内のあぶれものが主体だったため、モラルなんてものは持ち合わせていない強欲、冷酷・無慈悲そのもののひとたちだったようだ。(ピサロ、コルテスなど)

話がそれるが、ラス・カサスなんてインディオ擁護のいまでいう人権派の司教までもが黒人奴隷については無自覚だったようで、インディオに代わる労働力としてアフリカ黒人を使用すべきだなんて主張をしているのには驚かされる。


難攻不落の城砦
城砦と帆船 カルタヘナ




城砦アップ カルタヘナ




時計台・・・このしたの入り口をくぐり抜けると、旧市街に入る。
時計台 カルタヘナ



旧市街
旧市街1 カルタヘナ




スペイン植民地時代の建物で気づくのが木製のバルコニーだ。ここは温暖な気候のせいか、むき出しのバルコニーだが、例えばペルーのリマに残っている建物のバルコニーなどは窓が作られ、いわばサンルームのようになっている。
旧市街2 カルタヘナ






旧市街3カルタヘナ


こうしたスペイン植民地時代の遺産を眺めていると、ふたたび海賊のことが気になった。

この海賊というのはイギリスが主体だが、イギリスという国にお墨付きをもらっていた海賊である。(私掠船)

ドレーク海峡などで有名な海賊のドレークなどは、「サー」という貴族の称号まで与えられている。


考えてみれば、スペインの強奪・略奪行為もすごいが、その奪ってきた金品をさらに強奪するという行為には唖然とさせられる。
泥棒の上前を撥ねるということだ。
それを推奨していたイギリスという国の本性を見たような気がするのである。

北米大陸でインディアンを大虐殺し、オーストラリアではアポロジーニを、ニュージーランドではマオリ根絶やしにしてきたイギリス人。
原住民との共存というのは決してなく、排除、殲滅が彼らのやり口である。
自分がアングロサクソンを嫌う理由はこんな点にもある。

一方、スペイン人だが南米でインディオを虐殺したことも事実だが、多くの混血(メスティーソ)をも生み出したことも事実である。
このいわば能天気さがラテン気質ということなのだろうか・・・



話をこの歴史遺産地区に戻すと、ここにはガルシア・マルケスの家なんてのも残っている。
海辺に面してあるガボの豪邸 カルタヘナ




すぐお隣にはホテルがあり、「ホテル・マコンド」と名乗っていた。マコンドとは「百年の孤独」の舞台となった架空の村だが、アルカタカというガボが育った村がモデルである。
となりは「ホテル・マコンド」 カルタヘナ




ホテルの壁に描かれたガボの似顔絵と箴言。(ひとり寝の子守歌しかない人生ほど哀しいものはないよ!・・・なんて書かれています。嘘です。)
ホテル・マコンドのプレート 




category: コロンビア

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百年の孤独・マコンド村探訪記  







カルタヘナからマコンド村(アラカタカ)へ行くには、いろいろと行き方があるが、MarSol社のバスだとかなり便利で快適に行ける。

カルタヘナのMarSol社のオフィイスでサンタ・マルタ行きに乗る。
バスはバランキージャ経由で砂洲の上にできた道路を走ってシエナガに至り、北上サンタ・マルタへ到着。
ここではMarSol社のオフィスで降ろされるので、タクシーを拾い、サンタ・マルタのバスターミナルへ向かう。
次に、そこからフンダシオン行きのバスに乗り、アラカタカで途中下車する。
時間はサンタ・マルタまでが途中休憩もいれて3時間強。その後サンタ・マルタからアラカタカへは道路が混んでいたので3時間ほどかかった。帰りは空いていたので2時間ほどだった。



カルタヘナのMarSolの車庫。一般のバスターミナルより都心部に近く便利。
バスは小型だが、けっこう快適だった。
MarSol社のバスと車庫





バランキージャを出てからシエナガに至る間は長い砂洲があり、その上に舗装道路が走っている。道路の両側は潟になっている。
シエナガへの砂洲の上にできた道路から潟を見る アルカタカ




上の地図では90という数字が入っているところが、その砂洲である。
シエナガの前の潟 アラカタカ








マコンド村
マコンド村とはガボの小説「百年の孤独」の舞台となった架空の村だが、実際はガボが幼少期を過ごしたアラカタカ村がモデルである。(「百年の孤独」は焼酎ではないですよ!笑い)



「マコンドも当時は、先史時代のけものの卵のようにすべすべした、白くて大きな石がごろごろしている瀬を、澄んだ水が勢いよく落ちてゆく川のほとりに、葦と泥づくりの家が20軒ほど建っているだけの小さな村だった。」(「百年の孤独」より)

小説の冒頭でこう紹介されていた川。白い大きな石はなかったが、水は今も澄んでいた。
マコンド村 川・・・恐竜の卵の云々






綺麗な川の橋のたもとは洗濯場だった。
マコンド村 川2






川の両側に建っている家は昔の家で、今ではもちろん茅や泥でできた家ではないが、屋根は低い。
マコンド村 川3







村の中を貨物鉄道が走る。これは小説にも出てくるが、バナナ輸送目的で作られたものである。ユナイテッド・フルーツ社。このアメリカの会社はアメリカによる南米支配を知るうえでもっとも重要な会社である。南米の軍事独裁政権のスポンサーであり、軍部と結託して不法な利権を拡大し、富を吸い上げていた。(グアテマラとかキューバなど)
マコンド村 バナナ鉄道








アルカタカの町中
アルカタカ町中





マコンド村 川べりの家







アラカタカでは人力車とオートリクシャが住民の足である。
人力車1 アラカタカ






お世話になったリキシャマンは、フォークロア歌手でもあると言っていた。親切なひとでわざわざ川べりを回ってくれた。おかげで貴重な写真が撮れた。ありがとう!
人力車2 歌手のリキシャマン アラカタカ









ガルシア・マルケス博物館

アラカタカへ来た目的だった「ガボの生家」に行った。いまは博物館になっている。
リノバールされたようだが、原型がすっかり消されていて、がっかりした。
これなら、多少崩れていても、もとのままのほうが良い。


ガボの生家 1





書斎
ガボの生家3 書斎






サロン
ガボの生家 サロン






銀細工作業室。
小説ではアウレリャーノ・ブエンディア大佐は若いころ、銀で魚の彫り物などを作っていたことになっているが、こうして実際に銀細工の道具があるということは、だれがこの作業をしていたのだろうか・・・
ガボの生家4 銀細工の道具  実話?






小説では、発狂した族長「ホセ・アルカディオ・ブエンディア」が暴れまくるので、やむなく縛り付けておかれた大木は栗の木だったが、実際にガボの家にあったのはこの気根が無数に垂れ下がった大木だった。
ガボの生家 栗の樹ではなかった






幼少期のベッド・・・ゲバラの生家でも子供の頃のベッドがあった。日本の布団ではこうはいかない。
ガボの生家2 幼少期のベッド





ガボの幼少期の写真
ガボの生家7




category: コロンビア

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謹賀新年  


2016年1月1日

本年もよろしくお願いします。

・・・なんて、生きていたらですが・・・







現在はコロンビアの北端のサンタ・マルタというところにいます。

この何日間はネットが繋がらなくて、ブログの更新がままなりませんでした。

今日の宿はネットはちゃんと繋がるのですが、こちらの意欲がいまいちで、なかなか更新に手がつきません。


昨日は待望のガルシア・マルケスの「百年の孤独」の舞台である「マコンド村」ことアルカタカにいました。

地図でいうとサンタ・マルタのまっすぐ下でフンダシオンのすぐ上です。


そうそう、サンタ・マルタとアルカタカの中間地点にある「Cienaga=シエナガ」という地名がありますが、小説ではシエナガは固有名詞ではなく、それの意味する沼地、湿地として出てきます。


村は小説に書かれているように、澄み切った川が流れ、その両側に当時の古い家が建っていました。

「マコンドも当時は、先史時代のけものの卵のようにすべすべした、白くて大きな石がごろごろしている瀬を、澄んだ水が勢いよく落ちてゆく川のほとりに、葦と泥づくりの家が20軒ほど建っているだけの小さな村だった。」

小説の冒頭でこう紹介されていた川。白い大きな石はなかったが、水は今も澄んでいた。
マコンド村 川・・・恐竜の卵の云々





バナナを運ぶために作られた鉄道軌道もありました。(ユナイテッド・フルーツ社)
マコンド村 バナナ鉄道



検証!マコンド村っていうことできっちり小説を読み返すと面白いと思いました。


運が悪かったのか、泊まった安宿にはエアコンなんてものはなく、扇風機があるだけでした。
朝方、停電で扇風機が止まると、暑さは強烈でとてもじゃないが延泊はできないと諦めました。

この暑さにも小説では触れられていましたが、生憎いまは思い出せません。

というわけで、8時過ぎのバスで逃げ出してサンタ・マルタという町にやってきた次第です。


まずは新年のご挨拶から・・・・

category: コロンビア

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サンタ・マルタ  



2015年12月31日~2016年1月3日

アラカタカからサンタ・マルタに戻った。
行きとは違って道路は混んでおらず、2時間もかからないでサンタ・マルタのバス駅に着いた。

バス駅の携帯電話屋で先日買ったSIMカードが機能しないのだがと相談したら、ロンプラなどに書かれている市外局番ではなく、新たな局番を教えてくれた。それを最初に押し、次にホテルの番号を押すとちゃんと繋がった。

宿だが、着いてから探すのは嫌なので、事前に電話をしてみた。

Hostel Las Vegas というホテルはエアコン付きで40,000Cop=1,550円だった。

バス駅からタクシーで宿に向かう。

ラス・ベガスは海辺からすぐの距離にあり、部屋も清潔だった。
問題は便器のふたが外されていることだった。
どうして、わざわざ便器の蓋を外すのか理解できない。
便器の外された宿 サンタマルタ



それが嫌で翌日、これもロンプラで見ていた宿に替わった。
Hostal Casa Familia

こちらは値段も35,000Copと安かった。
ただし、エアコンがなかった。
こちらのスタッフは最高に愛想がよく、居心地が良かったのだが、窓がないのが玉に瑕。
扇風機を回していたが、熱気で息苦しいくらいだった。


ここも2日だけいて、翌日さらに並びの宿に替わった。
Hostel San Jorge

こちらは窓もあり、小さいながら机もあった。
おかげでパソコンを使うには快適だった。

1週間ほどの間に3回も宿を替わったことになる。



朝起きて海岸を散歩すると、ちょうどこんな屋台のおじさんがきている。エンパナーダとジュースとコーヒの朝食。
朝食は屋台で サンタマルタ


ここはコロンビアでも有数の海水浴客でにぎわうところだ。外国人観光客より圧倒的にコロンビア人が多い。

サンタマルタの海1





サンタマルタの海2




海岸で漁師が網を繕っていた。
サンタマルタの海 漁師 3





海岸に面した店で一杯気分で踊る人たち。
サンタマルタの海4 踊る人たち




海岸にはテントの土産物屋が軒を連ねている。夜遅くまで買い物客でにぎわっていた。
サンタマルタの海岸5 土産物屋




夕方、大型貨物船が入港してきていた。ちょっと前は豪華客船も見えていた。サンタ・マルタ港はカルタヘナにその地位を奪われるまで最大の貿易港だったそうだ。
大型貨物船が入港してきていた サンタマルタ





シモン・ボリバール終焉の地


シモン・ボリバールの像はそれこそどこにでもあるが、ここの像はほかの像と違って、終焉の地の像である。

コロンビア・エクアドール・パナマ・ペルー・ベネズエラの解放者であり、ボリビアの建設者である、と記されている。
シモン・ボリバールの像1




こちらは銘板で、カラカスに1723年7月24日に生まれ、1830年12月17日にここサンタ・マルタで没した、と記されている。
シモンボリバールの像2





小説「迷宮の将軍」巻末の年表より抜粋

1830年
12月1日 憔悴してサンタ・マルタに到着。

12月6日 スペイン人ドン・ホアキン・デ・ミエル所有のサン・ペドロ・アレハンドリーノの別荘に向かう。

12月10日 遺言と最後の声明を口述筆記させる。医師が、告解をし秘跡を受けるように強くするめると、ボリバールは言った。「どういうことだ?・・・・・遺言や告解の話を持ち出さなければいけないほど悪いのか?・・・・・いったいどうすればこの迷宮から抜け出せるんだ!」

(わたしのコメント・・・ 「迷宮の将軍」というガルシア・マルケスの小説の題名はこのボリバールの言葉からとった。)

12月17日 わずかばかりの友人に囲まれてサン・ペドロ・アレハンドリーノの別荘で死去。




このサン・ペドロ・アレハンドリーノの別荘だが、現在は博物館も併設されているそうだ。
車で10分くらいのところにあるのだが、なぜかめんどくさくて行かなかった。

サン・ペドロ・アレハンドリーノの農場(ネットの観光案内の画像を掲載)
シモン・ボリバールがなくなった農場 サンタ・マルタ





シモン・ボリバールが最初に埋葬されたカテドラル
カテドラル サンタマルタ






category: コロンビア

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Estoy Aqui.(私はここにいます)  


2016年1月4日~7日 Barranquilla

Estoy Aqui のタイトルの音楽で一躍世界的シンガーになったというシャキーラ。


以前の話ですが、たまたまテレビを見ていたら、
この人のコンサートにあのバルサのピケが来ていて、ステージからピケを名指し、壇上に上がるように言いました。
ピケが彼女の恋人だということと、この歌手がシャキーラというコロンビア出身の歌手だということをその時初めて知りました。

ピケとシャキーラ


まあ、そんなことはどうでもいいのですが、
そのシャキーラの出身地がバラキージャ(Barraquilla)というところで、いまそこにきています。

つまり、Estoy Aqui(=わたしはここにいます)です。しようもないダジャレですみません。



マグダレナ川にこだわっている
バラキージャに来たのは、以前カルタヘナに着いたときに気づいたと書いたように、地図上で見るとマグダレナ川の河口がすぐそばにあるからです。


バランキージャとマグダレナ川の河口付近の地図






そして、サンタ・マルタからの移動のバスから撮ったのが下の画像です。
上の地図で言うと90という番号の道路がバンキージャに向かって進みマグダレナ川に架かった橋の上からの画像です。
マグダレナ川1


マグダレナ川2


宿に着いてスタッフに、マグダレナ川の写真を撮りたいのだが、どこがいいか教えてというと、自分が撮った橋の上からだという返事でした。

ほかには見当がつかないとのことでした。

がっかり!


バランキージャに来たもう一つの大きな理由は「シティバンク」の支店がここにあることが分かったからです。
実はこの間、お金の引き出しにけっこう苦労していました。
ビザカードも普通の銀行ではなかなかうまく引き出せず、持ち金が底をつきつつありました。

シティバンクは支店だと簡単に引き出せました。
驚いたことに「日本語」という表示までありました。
そういえば今ではなくなったグラナダのシティバンクのATMでも日本語表示がありました。
シティバンクの提灯記事をついでに書くと、この銀行のいいところはすぐにメールで「本日、お金の引き出しがありました。現地通貨で○○で、日本円で○○でした」という知らせがくることです。
りそなのデビットカードも持っているのですが、こちらは出金したという通知は来るのですが、ネットバンキングで確認しろというだけで、手間がかかります。
さらにシティバンクの提灯を続けると、モロッコのフェズで出金手続きだけで現金が出なかったときも、直ちに返金措置をとってくれたことです。まあ、レートが良くないとかいろいろありますが、クライアントの対応はいちばんいいと思います。

さて、ビザカードのほうですが、ビザグローバルネットの案内を知って初めてうまくお金が引き出せました。
コロンビアでは「Banco del Colombia」のATMが引き出し可能でした。
その情報を伝えておこうと思って、銀行のファサードの写真を撮りました。

Banco del Colombia のATM

さて、この後が大変でした。

警官が二人やってきて、今の写真を見せろ!と言われました。
写真を見せるとすぐに消せと言われました。すぐに消したのですが、なぜか一枚残っていました。それが上の写真です。
そして、なぜ銀行の写真なんか撮っているのだ、と訊かれるので、かくかくしかじかだと返事しました。

次にパスポートを出せと言われました。
コピーしか持っていないというと、実物はどこにある?と訊かれホテルに置いてあると答えました。

それは法律違反だと相手は言だしました。
そうですね、すみませんでした。次から気を付けます。

この辺から、この二人組の意図はだんだん明らかになってきます。

持っていたバックのなかから手帳を取り出し、めくってみたり、携帯電話を取り上げました。

そして、いつお金を出すのだ?
と訊くので今日は出さない、カードを持ってきていないからと答えました。(実はカードは持っていたのですが)

残念そうな表情でした。

取り上げられた手帳にはたまたま大使館の住所とかが書いてあったのですが、日本大使館という漢字のところを指さし、これはどういう意味だというので、日本大使館だというと、相手はやや引き気味になりました。

携帯電話を返せというとしぶしぶ返してくれました。

そして、「レガロ=プレゼント」が云々と言い出したときに、何を言っているかわからないふりでとぼけました。

そうこうして、ようやく放免となったしだいです。

その間15分くらいでした。


そのあと、トルクメニスタンのことを思い出しました。
あの時も写真を撮っていて、マネーマネー警官にしつこくからまれたのです。
(別話ですが、つい先日、あの独裁国家に安倍がとんでもない金額の援助を申しでたのを知って驚きました。一応、天然ガスが目当てだそうだが、本当のところは独裁者同士気が合うのかもしれません。)



考えてみたら、自分の不注意といえば不注意なのだけれど、一瞬やばかったです。気を引き締めないと・・・






category: コロンビア

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モンポス(Monpox)  

2016年1月8日~11日 モンポス

先日、カルタヘナのガボの旧宅の隣にある宿の壁に描かれた箴言について、
こんなふうに書いていましたが・・・・・・

ホテルの壁に描かれたガボの似顔絵と箴言。(ひとり寝の子守歌しかない人生ほど哀しいものはないよ!・・・なんて書かれています。嘘です。)
ホテル・マコンドのプレート 



ただしい訳はこうです。

「空っぽのベッドほど寂しい場所はない」

ガルシア・マルケス著・野谷文昭訳「予告された殺人の記録」P64より





せっかくですので前の部分を少し紹介しておきます。


眠るのは死ぬ時だけに違いないと言われたいたマリア・アレハンドリーナ・セルバンテスは、わたしが知ったどんな女より品があって優しく、しかもベッドでは最高に尽くしてくれた。けれどもあんなきつい女も見たことがない。彼女はこの町に生まれて育ち、そしてこの町に住んでいた。戸を開け放した家には貸し部屋がいくつもあり、ダンスホールを兼ねただだっ広い中庭には、彼女がパラマリボの中国人のバザーで買ってきた提灯がぶら下がっていた。私たちの世代の男たちは、彼女によって童貞を失ったものだった。彼女は覚えなくていいことまで色々教えてくれた。中でも、空っぽのベッドほど寂しい場所はないということを、我々は彼女から教わったものである。・・・・・・・・

小説からわざわざあのセリフだけ抜き出しているホテルの意図に首を傾げてしまいます。「愛の交歓ホテル!」ってことですかね。(笑い)



予告された殺人の記録

ちなみに「マリア・アレハンドリーナ・セルバンテス」と同じような存在は「百年の孤独」では「ピラル・テルネラ」という情の濃い女性として登場しています。


ところで、この小説「予告された殺人の記録」は映画にもなっています。







そして、この映画が撮影された場所がモンポスというところだそうです。正式名称はサンタ・クルス・デ・モンポス。





モンポスとはマグダレナ川の中流域にあり、周囲は大沼沢地です。





これぞ自分が探し求めていたマグダレナ川が間近に見ることができる場所です。



ということで、さっそく行くことにしました。


バランキージャ10時発のバスでマガングエへ向かいます。
14時過ぎにマガングエに着くとすぐに客引きに船着き場に誘導され、小型の船に乗せられました。
船に乗ること約20分ほど。対岸の村に着き、そこから乗り合いタクシーで1時間ほどかけてモンポスに行くという行程です。


マガングエから対岸への船乗り場。船は乗り場の後ろにあり、見えていません。
マガングエからボデガまでの船1





こんな小型の高速船です。
マガングエからの船 モンポス行き





写真を撮ろうと張り切っていましたが、無理でした。
マガングエからボデガまでの船2






モンポスでは宿が見つからず、最後は運転手の友達のサント・ドミンゴ広場の正面の安宿に泊まることができました。
この宿はエアコンもあり、冷蔵庫までついているのですが、あいにくWIFIがありません。それでも一晩だけお世話になりました。1泊が22,000Cop=850円でした。
Hospedaje La Union Calle 18 No.3-43 (Tel)095-6855747


翌日、昨日断られた宿に行くと部屋は空いていました。ここはネットができます。1泊が35,000Cop=1,356円でした。
Kimbay Hotel




映画にも出ていた墓場
墓場1 モンポス





墓場
墓場2 モンポス





サント・ドミンゴ教会
サント・ドミンゴ教会







マグダレナ川の支流
マグダレナ川の支流1 モンポス






船着き場
マグダレナ川の支流2モンポス





マグダレナ川の支流3 モンポス




大砲の残骸とマグダレナ川の支流
マグダレナ川の支流4 大砲 モンポス





船着き場の食堂2軒・・・毎朝ここで朝食をとりましたが高いです。
川べりの食堂2軒 モンポス



グアバのジュース・・・野菜不足を補うためになるべく生ジュースを飲んでいます。これが4,000Cop=150円とちょっと値が張ります。いつもストローが2本ついてくるのですが、意味が解りません。かき混ぜるためでしょうか?
グアバのジュース モンポス




トマトと玉ねぎの入ったスクランブルエッグとパン、珈琲、ジュースで10,000Cop=350円です。もちろん、日本から見たら安いですが、地元の人からみたらとんでもない値段です。サンタ・マルタで屋台朝食が3,000Cop だったことでわかると思います。でも、マグダレナ川を見ながらの朝食だと思えばと、納得しています。
これで10000Cop モンポス






食堂のテラス
川べりの食堂のテラス モンポス






そこで食べた魚料理ですが、ナマズのような感じでした。すごく美味でした。Bagre という名前で書かれていました。
川べりの食堂で食べたナマズ モンポス







無原罪の御宿り聖堂と広場
無原罪の御宿り聖堂






右手の建物は昔の市場の建物
無原罪の御宿り聖堂2 モンポス





昔の市場の建物
昔の市場 モンポス






偽CD売りのオヤジが買わないかと声をかけてきたので、断ったついでに、サンタ・バーバラ教会へ行きたいのだが、モトタクシーのいるところを知らないかと訊ねると、あっちだと指さしました。歩いていると、後ろからモトタクシーがやってきて停まりました。その顔を見ると先ほどの偽CD売りのオヤジだったのです。
あるときは偽CD売り、あるときはモトタクシスタ・・・・そういうとオヤジも一緒に笑っていました。笑ったらいけませんよね。生活に必死なのですから・・・
あるときはCD売り、ある時はモトタクシー モンポス




サンタ・バーバラ教会
サンタバーバラ教会1







サンタ バーバラ教会2







歴史的建築物が残る街並み
歴史的建築物が残る街並み モンポス







そのなかであったロバ・・・どこか物悲し気な雰囲気です。
ロバの悲鳴に似た鳴き声は、ふだん耐えに耐えていた心が一挙に破裂した音のように聞こえてしまいます。
スペインのピレネーの山中のウスタロス村というところに長期滞在していたとき、ロバの悲鳴をはじめて知りました。
歴史的建築物が残る街並みとロバ モンポス







屋根の上にはワシの姿が・・・・ガボの小説「コレラの時代の愛」で知ったのですが、これはどうやら黒コンドルのようです。タカの仲間だそうです。(1月23日追記)
同じくワシ モンポス







街中に現れたサル
サルが燕に襲われる1 モンポス





画面には写っていないですが、実は燕がサルの顔をめがけてものすごい攻撃を仕掛けていました。慌てて逃げるサル。燕の巣が近くにあったようです。珍しい光景に人だかりができていました。
サルが燕に襲われ逃げる モンポス







category: コロンビア

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