2013/09/11

ウズベキスタン・ヒヴァ

シルクロードとヒヴァ
シルクロードとヒヴァ



ヒヴァの概略
イチャン・カラは、ウズベキスタン・ヒヴァの壁に囲まれた旧市街地である。1990年に、ユネスコの世界遺産に登録された。ヒヴァの遺産としても有名である。 イチャン・カラ旧市街には、50以上の歴史的建造物と250以上の古い住居が残る。これらの建築物はおよそ18世紀から19世紀にかけて建設された。( ウィキペディアより)



ヒヴァ俯瞰ー1




ヒヴァ俯瞰ー2




ヒヴァ俯瞰ー3




ヒヴァ俯瞰ー4




イチャン・カラ(旧市街)の外・・・ドゥシャン・カラ(新市街)の方角

ヒヴァ俯瞰ー5



ヒヴァーD1




ヒヴァーD2




ヒヴァーD3




ヒヴァーD4




ヒヴァーラクダ




ヒヴァーD5




ヒヴァーD6




ヒヴァーD7





ヒヴァーD8




ヒヴァーD9




ヒヴァーD10




ヒヴァーD11




ヒヴァーD12





ヒヴァーD13





ヒヴァーD14





ヒヴァーD15





子供兄弟





ヒヴァーD16




ヒヴァーD17




ヒヴァーD18




ヒヴァーD19




ヒヴァーD夕景1




ヒヴァーD夕景2




ヒヴァーD子供城壁





ヒヴァ・サンセットー1




ヒヴァ・サンセットー2




ヒヴァ・薄暮ー1






ヒヴァ・薄暮ー3




ヒヴァ・薄暮ー4










2013/09/13

中央アジアの朝鮮族の人たち

ヒヴァのバザールで

ケバブ―屋
ケバブ―屋




ここははやっているだけあって、肉厚だった。しかも美味い!
ケバブ―









ラグマーン
ラクマン



中に麺が・・・・
ラクマンー2







唐辛子






キムチ発見!
キムチ発見







キムチ・・・茄子









このおばさんたちは朝鮮族のひとたち
キムチおばさんー1







キムチおばさんー2









キムチおばさん-3









朝鮮族のディアスポラ

ずいぶん昔だが、中央アジアの朝鮮族をテレビ取材したいと思って企画書を書いたりしたが、ついに実現しなかった。
それが、今回こんなところで、朝鮮族のおばさんたちに遭うことになるとは、想像もしていなかった。

僕は1990年代の前半に、サハリン(旧樺太)のユジノサハリンスク(旧豊原)の自由市場で「残留朝鮮人」のおばさんたちがキムチを売っている姿を目にして、どうしてここに日本語を話す朝鮮の人がいるのか、と衝撃を受けた経験がある。

その時、その中のひとりのおばさんから日本語で「私は京都の四条西院の出身だよ」と話しかけられた。おばさんは西院の近くの町名を懐かしそうに口にした後、「このキムチ持っていきなさい」と袋一杯のキムチをプレゼントしてくれたのである。僕がいくらお金を払おうとしても、おばさんは頑として受け取らなかった。

この人たちは当時の「樺太」の労働力不足を解消するために、朝鮮半島から出稼ぎで渡来した人々および「強制的に徴用」されてきた人たちの家族やその二世・三世の人たちで、敗戦後は日本国籍を失い無国籍状態となって、樺太に留まらざるを得なかった人たちである。
※作家の李 恢成(り かいせい、イ・ホェソン)の本に詳しい

今回出遭った朝鮮族のおばさんたちは、1930年代の末にスターリンによって中国・沿海州から強制的に移住させられてきた人々の末裔である。
日本の植民地支配下にあった沿海州の朝鮮人たちが日本に戦争協力をするのでは、と疑ったスターリンの民族政策によって強制疎開させられた人々の末裔である。
そういう意味では、この人たちは、直接的にはスターリンの民族政策の被害者であるのだが、と同時に別の視点から見ると「日本の植民地支配」の犠牲者でもあるのである。


両者に共通しているのは、日本の植民地支配のもとで起こった朝鮮民族の「ディアスポラ」である。

日本の植民地支配の歴史を「昔のことをしつこく取り上げて・・・」などという人たちがいるが、こうした故郷を喪失させられた人たちが今なお存在しているという事実を知るべきである。そして「もし、あなたがそういう立場に立たされたなら、どう感じるか」を想像するべきだ。
「水に流す」という言葉は、被害者が言いえても、加害者には永久に言いえない言葉なのである。









参考として
高麗人(こうらいじん、コリョイン/コリョサラム、고려인/고려사람、Корё сарам)は、ソビエト連邦崩壊後の独立国家共同体(CIS)諸国の国籍を持つ朝鮮民族のこと。
高麗とは朝鮮半島に10世紀から14世紀まで存在した朝鮮半島の国家で、日本では江戸時代まで多くの場合「朝鮮人」ではなく「高麗人」と呼んでいた。「高麗人参」はその名残である。また、世界的にも「朝鮮半島=高麗」という認識があり、非漢字圏では朝鮮民族のことを英語ではコリアン (Korean) 、ロシア語ではカリェーエツ (кореец) というように、朝鮮民族の呼称として“高麗人”にあたる語が広く用いられている。旧ソ連地域の高麗人は、その他称としての「高麗人」が自称に転化したものである。
現在の主な居住地は、ロシアをはじめとしてウズベキスタン、カザフスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、キルギス、ウクライナなどである。約 50万名の高麗人が中央アジアを中心に居住しており、ロシア南部のヴォルゴグラード近郊やカフカース、ウクライナ南部にも高麗人コミュニティが形成されている。これらのコミュニティは、19世紀後半まで朝鮮と境を接した沿海州(現在の沿海地方)に居住していたが、1930年代後半~第二次世界大戦中にかけて中央アジアに追放された高麗人によって形成されたものである。
樺太にも、ロシア本土とは別に在樺コリアンが居住している。19世紀後半~20世紀初頭にかけてロシア本土へ移住した者達とは異なり、樺太における朝鮮人は、主に1930年代~40年代にかけて主に慶尚道と全羅道から移住した者達である。彼らは、第二次世界大戦期の労動力不足を補う為に、南樺太へ出稼ぎや徴用によって移住していた(ウエキぺディアより抜粋)












2013/09/14

干上がった海

アラル海地図


より大きな地図で ヒヴァ・ウルゲンチ・ヌクス・ を表示



9月13日の朝、ヒヴァからウルゲンチへ乗り合いタクシーで向かった。
そこから同じく乗り合いタクシーでヌクスへと移動。
この時の料金は大体7ドルら8ドルくらいなのだが、ウルゲンチまでのタクシーの運転手の言うことを聞いて倍近く払ってしまった。こやつは、ヌクス行きの運転手からバックマージンを取ったようだ。ムカッ!


ウルゲンチから3時間ほどでヌクスに着いた。
ホテルは「ヌクス・ホテル」
3人部屋のドミトリーをシングルユースで12ドルで泊まることになった。
僕が持っている2007年の「旅行人」に出ている古い元ツーリスト系の宿で、構えは立派なのだが、メンテナンスがでたらめで荒れ放題の宿だった。
問題はベッドで、壊れたスプリングだった。グルジアとアルメニアの宿を思い出し、再びぎっくり腰になるのではと心配になり、床にマットカバーを敷いて寝た。おかげで腰痛はなんとか回避できた。
風呂場にはタブがあるのだが、トイレの臭いが酷かった。もちろんWIFIなどなし。

ここにやってきたのは、アラル海の港町モイナックへのベース基地だからだ。
日本人3人が同じホテルに着ていて、彼らもタクシーをチャーターして、翌日アラル海の町・モイナックまで行くという話をレセプションの女性から聞いて、僕も同乗できないかと依頼してみた。ところが、もうひとり参加する日本人がすでにいて計4人になったので、僕のスペースはないとのことだった。
タクシーのチャーター料金は80ドル。僕以外の人は、4人で一台のタクシーに乗るので、ひとり20ドルとのことだった。
僕は諦めて一人でタクシーをチャーターしていくことにした。
ところが、夜、ほかにロシア人とスペイン人が参加するので、僕も入れて計7人だからミニバスをだす。一人あたりの値段は20ドルで良いという話がレセプションの女性から聞かされた。
翌日、ミニバスがやってきて僕もいれて日本人5人が乗り込んだのだが、ロシア人もスペイン人もやってこなかった。運転手によるとミニバスのチャーター代金は160ドルとのことだった。つまりは4人の日本人はタクシーを一台チャーターしたので80ドル、そこに僕が一人で一台チャーターしたので80ドル。それをミニバス一台にまとめ上げたというものだった。
そこで僕が80ドルを支払うというと、残りの人たちは均等割りで良いと言ってくれたのである。申し訳なくて、なんども80ドルを支払うと言ったのだが、結局、一人33ドルの割り勘になってしまった。
僕が飛び入り参加したために、残りの4人に負担をかけてしまって、ほんと肩身の狭い思いをした。
みなさん、すみませんでした。




干上がったアラル海


ソビエト連邦時代、このあたりは「綿産業」の一大拠点だったため、大量の水を使い、アラル海への流入水量が極端に減ってしまった。加えて地球温暖化の影響もあり、1960年代頃から徐々に干上がり、現在のような姿になったという。

アラル海の今をあらわすイラスト・・・・青いところが海
アラル海標識





廃船1





廃船2





廃船3





廃船4





廃船5





廃船6





廃船7







廃船8





廃船9





廃船10





廃船11




上の方に微かに海が見える
廃船12





廃船13





廃船14





廃船15





廃船16





廃船17





廃船18





廃船19






廃船20



NASAの衛星から見たアラル海

60年代



90年代



2009年





今日は僕の60代最後の誕生日。
この廃船を見ていると、自分の今の姿とが二重写しになって見えてしまった。
遠くに引いてしまった海は、友であり、肉親である。
海に浮かんでこそ生きてこられた船も、海がなくなるとただの鉄屑なのだ。
まさに海を失くした船は寂しく朽ちてゆくしかない。

なんて感傷的になってしまった。
「うたごころ」があれば、気の利いた歌が詠めるのだろうね。

「老いぼれ箱男・最後の旅路・歌集」なんてのを万が一作ったら、種田山頭火や尾崎放哉を幼稚にしたようなのしか出来上がらないのだろう。恥ずかしいな!
























2013/09/18

ブハラ

ヌクス~ブハラ
2013年9月15日





より大きな地図で ヌクスからウルゲンチを経てブハラへ を表示









朝10時半。ヌクスで同宿だったひととタクシーをシャア―して、ブハラ行きの列車があるウルゲンチまで向かった。
タクシー代は一人1000円ほど。
3時間ほどで着いたが、あいにくブハラ行きの列車は19日までないとのこと。
やむなく、再びタクシーをチャーターして、ブハラへ。
ヒヴァからブハラが100ドル、ウルゲンチからだと120ドルが相場と聞いていた。したがって二人でシャア―すると、一人6,000円ほどかかった。

途中、チャイハネで簡単な昼食をとったり、道路が工事中ということもあり、ブハラに着いたのは午後の9時過ぎ。


ラビ・ハウズ近くの宿を何軒か当たるが、40ドルや35ドルとべらぼうな値段。しかもホテルの従業員の対応が横柄だった。

最後にたどりついたのが、「Nasriddin Navruz=ナシュリディン・ナヴルズ」。
25ドルというところを20ドルに値下げしてもらった。入り口はお世辞にもきれいとは言えないが、部屋の中は改装したところで、実にきれいだった。もちろん朝食付き。

腹の出たオヤジがおかしかった。

着いたその夜に僕の支払い分も一緒にやってきた人に渡して二人分を支払ってもらったのだが、オヤジは僕がまだ払っていないと勘違いしていて、「マネー」「マネー」と盛んに言ってきた。「僕は払ったよ」となんとか納得してもらったのだが、あの「マネー」「マネー」の口調が頭にこびりついてしまった。

それから、僕はオヤジのことを「マネー・マネー」と呼ぶことにした。

両替サービスがあるというので頼むと、オヤジ自らバザールまで自転車で行ってきてくれた。
レートは悪くないが、手数料と称して、1000ソム(40円ほどか)を抜いた金額を手渡してくれた。
サマルカンドへ行く日も、鉄道駅までのタクシーを頼んだら、オヤジがついてくるので、てっきり見送りに来て値段交渉をしてくれるものだと思っていたら、なんとオヤジ自身がタクシーの運転手に早変わりした。
どんな小銭でも労を惜しまずに稼ぐという精神はみあげたものだ。
マネー、マネー!
でも、このオヤジ、根は親切でホスピタリティーもあり、いろいろと気を使ってくれた。
いい人だった。


オヤジ・・・両替屋かタクシーのドライバーという稼ぎの時は、この帽子を被っていた
宿のオヤジ


ところで、この宿のすぐ近くにはユダヤ教のシナゴーグがあり、一帯はユダヤ人街だったそうだ。
オヤジはもしかしてユダヤ人の末裔。
僕はもしかしたら、シェークスピアの「ベニスの商人」風にユダヤ人を矮小化しているかもしれない。そうだとしたら、すみません。






ラビ・ハウズの正面にある「FOOD Market」の横の道の突き当たり、右側にある。
ナシュリディン・ナヴァルズ外観




ここで朝食をとる
中庭・・・ここで朝食をとる







ブハラ散策9月15日~18日

ブハラ旧市街の中心にある池・・・・ラビ・ハウズとはタジク語で「池のほとり」という意味。ちなみにブハラの住民は大半がタジク系。池の向こうに見えるのが、「ナディール・ディワン・ベギのマドラサ」
ラビ・ハウズ




池に面してある「ナーディル・ディワン・ベギのマドラサ」・・・・ナディール宰相の神学校
ナーディール・ディワン・ベギのマドラサ



対面にある「ナデール・ディワン・ベギのハーンカー」・・・17世紀、ブハラ・ハーン国の宰相(ディワン・ベギ)だったなナディールによって建てられた修道場。
ナディール・ディッワン・ベギのハーンカー




同じく池に面してある「コカルダシュのマドラサ」
コカルダシュのマドラサ




マガーギ・アッターリーモスク・・・現存するブハラ最古のモスク。12世紀の建築。
ブハラ最古のモスク・マガーギ・アッターリー




ターキ・テルバック・フルシャーン・・・タークとはタジク語でドームを意味する。屋根付きバザールで、道路が交差するところに建てられた。テルパック・フルシャーンは帽子を意味する。今ではなんでも扱っているが、当時は帽子専門の店が集まっていた。
ターキ・テルバック・フルシャーン






土産物街・・・後ろに見えるドームの屋根の建物はターキ・ザルガラーン
土産物街・・・後ろにターキ・ザルガラーンが見える




日本語で話しかけてきた土産物屋の女の子
女の子二人





ブハラ名物のはさみ
ハサミ屋








楽器アップ







街中
街中ラビハウズ近く




立ち入り禁止のマドラサに外人のアベックと紛れ込んでしまった。しばらくして怒られた。ミーリ・アラブのマドラサ。寮生の洗濯物が見えている。
ミーリ・アラブのマドラサ




カラーン・ミナール・・・1127年建築。高さ47メートル。19世紀半ばまで、公開処刑の場として、ここから罪人を突き落としたそうだ。怖っ!
カラーン・ミナール





カラーン・ミナールアップ




カラーン・モスク外観
カラーン・モスク外観






カラーン・モスク内部
カラーンモスク内部






カラーン・モスクのドームアップ
ドームのアップ













カラーンモスクとカラーンミナール
モスクとミナール





2013年9月21日 現在地はサマルカンド。











2013/09/22

サマルカンド

中央アジアで一番見てみたかった町
ブハラから列車で3時間。
快適な列車の旅だった。
駅からバスに乗って、レギスタン広場に着いた。
宿は、バックパッカーの宿として有名な「BAHODIR=バハディール」の別館「ABDURAMON」。
一泊朝食付きで15ドルのところを5日泊まるので13ドルにしてもらった。
この宿は夕食時に3ドルを払えば、家庭料理が食べられる。
WIFIも快適だし、沈没するにはうってつけの宿だ。




サマルカンドの見どころ



レギスタン広場


レギスタン広場とは「砂の広場」という意味だそうで、向かって左から「ウルベク」「ティッラ・カーリー」「シールダール」の三つのマドラサが周りを囲んでいる。ベンチに座った赤いシャツのお兄さん、動くのを待っていたが駄目だった。今後は地味な色の服でお願いします(笑い)
レギスタン広場




正面に位置する「ティッラ・カーリー・マドラサ」・・・ティムール朝崩壊後の1646年から60年にかけて、この地方のウズベク人領主「バハドゥル」によって建設された。
ティラ・カーリー・マドロサ外観




「ティッラ・カーリー」とは「金で覆われたという意味」。文字通り、左側のドームの内部は金ぴかだった。
ティラ・カーリー・マドロサ内部1





キンピカ内部2





内部3





内部4








正面左の「ウルベク・マドラサ」・・・ティムールの孫ウルベクにより1417年から20年にかけて建てられた。三つのうちで一番古い。
ウルグベクーこちらが正しい







50ある小部屋では,当時、各地から集まった学生100人ほどが寮生活を送っていた
50ある小部屋では各地から集まった学生100人が寄宿





「シールダール・マドラサ」・・・ペルシャ語でシールはライオンの意味。正面のアーチにライオンの画が描かれている。ライオンはサマルカンドのシンボルだったそうだ。
ライオンー1






ライオンアップ






<


金ぴかの廟(ティッラ・カーリー・モスク)を出たら、子連れのおばさんに捕まり、写真を撮るように言われた。
この国でよく見かけることだが、女性が派手な金歯を前歯に被せているのである。ちょうど、金ぴか廟を出た所だし、この際、何かの縁だと、なんとかおばさんの金歯を撮ろうと狙ったのだが、駄目だった。残念!
親子






夕景ードームシルエット



中央アジア最大のモスク・・・ビビ・ハヌム・モスク

ビビ・ハヌム・モスク遠景




コーランを載せる書見台
書見台





ビビ内部1







ビビ内部2





ビビ内部3







いちばんのお薦め!シャーヒ・ズィンダ廟・・・ティムールや孫のウルグベクの親族が葬られた廟がずらりと並ぶ。


シャーヒ・ズィンダ外観





シャーヒ2






シャーヒ3






シャーヒ4






シャーヒ5






シャーヒ6




シャーヒ7





シャーヒ8





シャーヒ9





シャーヒ10





シャーヒ11





シャーヒ12







スィヤーブ・バザール


バザール・ロング





パン屋1





パン屋2





市場のオヤジ





市場オヤジ2





グリーン・ペッパー
グリーン・ペッパー





キムチ
キムチ




ザクロ
ザクロ






旧市街路地裏
旧ソビエト官僚の都市計画なんてものはろくでもない。
ここサマルカンドも歴史的建造物の周りが整備?されている。
彼らは、「社会主義都市計画論」にのっとって、以前はあったであろう、古い家並を取り壊し、馬鹿でかい道路を作り、両側に均質なデザインの土産物屋を配置してみせた。

この無味乾燥な景観の背後に押しやられた、住民の居住区域を見てみたいと思った。


先の方の煙はケバブ―を焼いている煙
旧市街




古いモスクのような建物
古いモスク




古びたドームがある家
古びたドームのある家







写真を撮ろうとしたら、おしっこをしだした(笑い)
写真を撮ろうとしたらおしっこをしだした



ここにもブハラと同じく、旧ユダヤ人地区がありシナゴーグが残っていると知って、しつこく探したんだが見つからなかった。つい先日、ネットで入手したPDF版の「ロンリープラネット」の地図には載っているのだが・・・・
東欧のユダヤ人というのは、結構知られているが、旧ソビエト連邦のユダヤ人についての実態は、あまり紹介されていない。(僕が無知なだけかもしれないが・・・)
その実、旧ソ連からのイスラエル移住者の数はかなりのものと言われている。
余談だが、僕が驚かされたのは、イスラエル移住者で過激なシオニストの中にあの「レオン・トロッキー」の孫がいたことだった。






カバブーとラグマーンを食べていた!・・・レギスタン広場を抜けて向かい側のスーパーの横の通りに2軒地元のひと用の食堂があったので、連日昼食をとりに通った。
食事は宿の夕食もおいしかったし、昼飯も良かったので、大満足。


4本も頼んだら、多すぎた。左側の店。
4本も注文したら、多すぎた。こちらのほうが流行っていた


翌日は向かいの店(右側の店)で2本にした。ビール2本とサラダを付けて14,000ソム≒530円だった。安くて美味い!
最初の店でケバブ―。この日は2本だけ




右側の店でラグマーンを頼んだ。これは5,000ソム≒190円だった。
ラグマーン・・・最初の店



ラグマーン解剖
ラグマーン中身




宿の通りの入り口あたりにある「甘党の店兼食堂」でラグマーンを頼んだらセットメニューだった。9,000ソム≒340円
ラグマーンセットメニュー














がっかり!サマルカンド

小さい時から「サマルカンド」という地名は聞いていた。
シルクロードにあるオアシスのある町。
隊商が必ず立ち寄り、チャイハナで水パイプを吸い、旅の疲れを癒す場所。
白い顎鬚の老人たちは木陰で、何をするというでもなく日がな一日を過ごす・・・

まあ、こんな稚拙かつ牧歌的なイメージを「サマルカンド」に何十年も持ち続けてきた。


ところが、実際に来てみたら、そんなイメージ=妄想とはかけ離れた別世界だった。


宿で会った人に、サマルカンドにはがっかりさせられた、とぼやいたら、旅の順序を間違えたのだと指摘された。
サマルカンド→ブハラ→ヒヴァと回れば、シルクロードのイメージも徐々に味わえたのに、僕のように最初にヒヴァのような、いかにもシルクロードというようなところからまわったのが良くなかったようだ。
なるほど!そうかもね・・・










2013/09/26

タシケント

サマルカンドからタシケントへ


より大きな地図で サマルカンド~タシケント を表示2013年9月23日


サマルカンドから列車で3時間ちょっと。
今回は2等の列車に乗ったのだが、車中が暑くてあまりいい旅とは言えなかった。
まあ、それでも運賃は一等が40,000ソム(1500円)で2等は29,000ソムと4分の3だから文句は言えない。

サマルカンドからタシケントへの列車内
サマルカンド~タシケント



宿は事前に電話をしておいたGulnara。一泊がシングルで35ドル。値切って33ドルにしてもらった。タシケントのホテルは高いので有名だが、タジキスタンのビザ取りのためにタシケントに滞在することにした。(23日~27日まで)

グルナーラへの目印のビル「チョルス・ホテル」・・・これが廃墟で、ほんとうにホテルかどうか迷った
チョルス・バザール駅からの目印・・・廃墟ビル



宿の外観
Gulnara・・・外観



宿の中庭・・・背中が見えている人はサマルカンドの宿でも一緒だったベルギー人
Gulnara・・・中庭・・背中の見えているおじさんはベルギー




チョルス・バザール

この街で一番気に入ったのは、チョルス・バザール。連日うろついた。

バザールの建物




バザールー1



刃物の磨ぎ屋
刃物磨ぎ屋




バザール人出




人出ー2



魚屋
魚屋



香辛料屋
香辛料屋



パン屋
パン屋



バザールのなかの食堂・・・ここで毎日昼飯を食べていた。
通った食堂




この大盛りを見よ!ラグマーン
ラグマーン



マントゥ
マントゥ



店内
店内







宿の中庭には柿の実がなっていた・・・もう秋か。それにしても、なぜ永遠の太陽を惜しむのか。・・・なんて!
柿の実







マネー・マネー警官と旧ソビエト官僚の残滓

さて、翌日、朝一番にビザ取りのためにタジキスタン大使館へ向かった。
最寄りのチョルス・バザールのメトロ駅からタシケント駅(鉄道駅)まで行き、地図で見ると、そこから大使館は近そうなので歩くことにした。
ところが、この歩きが誤算だった。
地図が古いこともあり、迷いながら歩いたこともあって、一時間ほど歩く羽目になった。
タシケントの町は旧ソ連圏の町と同じで、道路がやたら広く、しかも一ブロックが大きすぎるのだ。
そのため、地図で見たよりはるかに遠いのである。

汗をかきかきやっと到着した大使館の前には大勢の人が詰めかけていた。
彼らは、おそらくタジク人で僕のようなツーリストビザではない、別の種類のビザ申請のようだった。
ビザの申請用紙を何とか手に入れ、記入。その時、ロシア語表記の用紙を貰ったのだが、ほかは空欄のまま、名前とパスポートナンバーだけ書くように言われた。

そして、黒山の人だかりの中で、待っていると、警備の警官が寄ってきて、僕の書類を見て、「ホッチキスで留めないとばらばらになるから、留めなさい」と親切そうにゼスチャーを交えて言ってくれた。そして、ホッチキスを取りに行こうと僕を人ごみの中から連れ出そうとしたのである。僕は、なにか、おかしいと思い、サンキュー、ホッチキスは自分で探すからと断ると、僕の時計を指差し、11時で大使館は閉まる、というゼスチャーをしてから、マネー!マネー!と言った。どうやら、金を払えば早く入れてやる、と言っているようだった。
「そんなお金は持っていない」と答えると、苦笑いをして、再度、腕時計を指差し、11時で閉まる、再びクローズのゼスチャーをした。僕は、お金はないと言って、その場を離れ、元の人だかりのほうに戻った。

それから、30分ほど待っていたが、いくら待っても、僕の名前が呼ばれないので、人ごみをかき分けて、ゲートの中に行き、書類とパスポートを見せると、ゲートを守っている警官はあっさりと中に入れてくれた。
そして受付で書類を提出。
ダブルエントリーの30日間のツーリストビザとパミール高原のパーミッションを発給してください、と言った。
係官は、パミール高原のパーミッションは、ここでは発給できない、ドシャンベ(首都)に行ってとるようにと応えた。
それから僕の提出した書類をチェックしていたが、最後のロシア語の表記の書類の空欄のところを指差し、ここを埋めるようにと言った。その時、何を書いて埋めるのかよく聞こえなかったが、どうやら訪問都市を書くようにと判断した。というのも、過去にこうした書類で訪問先の地名を詳しく書いたことがあったからだ。
そして、いったん外に出て、その個所を書き込んでから再度受付に行った。
僕が書いた書類を見て係官はこんなのではダメだ!と書類に大きなバツ印をつけて、横柄な態度で書類を突き返してきた。

僕はこの年になって、まるで小学生のような気分になった。実際、僕の小学生時代は毎日、先生から宿題をやってきてないと、こうして怒られていたのである。

それにしても、えらそうな態度だった。弱いものを見つけると威張り散らす、典型的なコッパ役人気質の男だった。
こんな輩を見ていると、今なお、旧ソ連官僚の遺伝子が脈々と受け継がれていることがわかるような気がした。

僕は、その時は、何がダメなのかよくわからないまま、時間も11時を過ぎていたので、今日中にもう一度書類を提出するのは無理と判断して、いったん宿に戻った。

宿のオーナーにバツ印のついた書類を見せて、そこに書かれているロシア語を訳してもらうと、その空欄は「旅の目的」を書く欄だったのである。
つまり、貴国の素晴らしい自然とタジク人の文化にぜひ触れてみたいので、どうぞツーリストビザを発給してください!といった趣旨の文章を書くべきだったのだ。
まあ、僕の早とちりがいけないのだが、翌日また大使館へ行く意欲は消え失せていた。

パミール高原のパーミッションがここでもらえないなら、キリギスタンのタジキスタンの大使館では発行してくれるそうだから、キリギスに行ってからビザはとろうという結論に行き着いた。

こういう経過で、タシケントにいる必然性はなくなったのだが、宿に無理やり3日の予約を入れたこともあり、残り2日間は漫然とタシケントに留まっている。

この街で特に見たいものがあるわけでない。
まあ、あえて言えば、チョルスのバザールぐらいである。そのバザールも警官がそこら中にいて、パスポートをチェックしてくるので鬱陶しい。

警官と「チビ官僚」のおかげで「中央アジア」の印象が悪くなる一方だ。