梅安亭日乗

「TOKASUどこか遠い空の下で」を改め「梅安亭日乗」としました。

カミニート(Caminito)  



ブエノスアイレスの港、ボカに位置する。
家々の壁やテラス、屋根が原色で大胆に塗り分けられているこの独特の一角は、フィリベルト作のタンゴの名曲「カミニート」を記念して、彼の親友であるボカ生まれの画家、キンケラ・マルティンによって造られた。週末になると多くの画家の卵たちが作品を持って集まり、ミニ美術館のようになる。また、路上では大道芸人がタンゴの調べにのって踊っている。
「カミニート」は「小径」という意味。






カミニート2



カミニート4




カミニート7




カミニート5




カミニート6






オジイーズの国会包囲デモ

友人がメールをくれた。
すごい熱気だったそうだ。

12万人なんて60年安保反対デモ以来のことだ。
世代間断絶なんて吹っ飛ばす世代を超えた連帯にうれしくなった。





オジーズたちの国会包囲デモ




category: アルゼンチン

tb: --   cm: 0

記憶固執シンドローム?  




観光スポットをきっちりとまわらないほうだが、まあ、せっかくだから「大統領官邸」ぐらい行ってみるかと出かけた。
ピンク色の建物で「Casa Rosada=カサ・ロサーダ」と呼ばれている。
大統領官邸


その斜め向かいには、なんども経済危機に見舞われて注目を浴びた「アルゼンチン中央銀行」の建物がある。
中央銀行


その後、近辺を歩いていると、見覚えのある通りに出た。
「Maipu通り」だ。
maipu通り


2001年に初めてアルゼンチンのブエノスアイレスに着いたときに泊まったホテルがあったのが「Maipu通り」である。
ホテルの名前はその時ははっきり思い出せなかった。
通りを端から端まで2往復した。

そして、ついに見覚えのある看板を発見した。
Mapui Hotelの昔の看板

こちらが新しい看板
Mapui Hotelの新しい看板


Mapui Hotelの正面
Mapui Hotel 正面

入り口の階段
Mapui Hotel 入り口階段

2001年に泊まった時の写真・・・初期のデジカメで撮った写真。
ブエノス・アイレスのホテル

ホテルの写真を撮っていたら、隣のお店のオヤジさんが不思議な顔をしてこちらを見ていたので、「15年前にここに泊まったことがあるのです」と言い訳がましく言った。
オヤジさんは、なるほど、そういうことかと納得してくれたようで、「このホテルは古いよ」とあいづちをうってくれた。
「この屋上には洗濯物干し場がありますよね?」と念をおすと、上を見上げながら、「そうそう、この辺まであるよ」と自分の建物の上のほうを指さした。
「いや、懐かしかったもので・・。Gracias」と言ってその場を離れた。



昔泊まった宿探しの話だが、このブログでなんども書いている。
エクアドルの首都のキトで緑色の外壁の宿「アマゾネス」を探し当てた話とか、ボリビアのラパスでも見つけたといった話とかである。
もちろん見つからなかった宿もある。エクアドルのリオバンバでいくら探してもわからなかったときは、ほんと悔しい思いをした。
そして、今回は偶然、知っている通りに出くわし、その通りと交差するEsmeralda通りの焼肉屋を見つけた時に、このあたりにに違いないと確信した。 
歓喜してしまった。
いったい何がうれしいのか自分でもわからない。
はっきり言ってぼけ老人の範疇に入っているのを自覚しているのだから、記憶力を誇っていると取らないでほしい。
つまらない過去の断片記憶にこだわる、いってみれば「記憶固執シンドローム」とでもいえるものかもしれない。






category: アルゼンチン

tb: 0   cm: 0

コルドバへ  



9月3日(木)

ブエノスアイレスからコルドバへバス移動。



朝の8時半のバスに乗り、午後7時半にコルドバに着いた。
11時間もバスに乗っていると疲れる。



category: アルゼンチン

tb: 0   cm: 0

ゲバラが幼少期を過ごした家  




コルドバからバスで小一時間のところにある「アルタ・グラシア」という町に行った。

「Alta Graciaのバス駅」
Alta Gracia バス駅


町中を流れる川が牧歌的な雰囲気を醸し出していた。
町中を流れる川が牧歌的な雰囲気を醸しだしている


なんども道行く人に聞きながら、やっとたどり近くまできた。{ゲバラの家」という標識。
100メートル先にあるでは意味ない。もっとはやく看板を出してほしい!
何度も道行く人に聞きながら、やっと近くまで来たことが分かった標識

ゲバラが幼少期を過ごした家が残っていて、今は博物館になっている。
小さい時から喘息もちだったゲバラの体を心配した両親が、空気のきれいなところに住ませたいと思って移り住んだ場所だった。

「ゲバラの生家」
ゲバラが幼少期を過ごした家


セーターなど当時のものとは思えないのだが・・・
「ゲバラの部屋」
ゲバラの部屋


ほかの写真はほとんど知られたものばかりだったが、
カストロとチャベスのふたりがゲバラの家に来たことは知らなかった。
「南米のゲリラ任侠道」だ!いいね!
カストロとチャベス


このあとの展開がゲバラのゲバラたるゆえんだ。
ボリビアのゲリラ闘争に参加するため変装して入国した。
変装してボリビアへゲリラ闘争で入った写真

ボリビアでゲリラ活動をするゲバラ


渡河中のゲバラ
渡河中のチェ



ゲバラが撃たれて負傷した場所・・・石に星のしるしがつけられている
ゲバラが撃たれて負傷した場所



負傷して運び込まれた小学校(現博物館)
博物館・・・元小学校



博物館内部
博物館内部




処刑直前の写真
ゲバラ最後の写真




2011年の1月7日あたりのブログで紹介している。
ボリビアのゲバラ最期の地・イゲラ村と闘争の舞台となったバジェ・グランデを訪れた時に書いたもの。






category: アルゼンチン

tb: 0   cm: 0

マヌエル・ファジャ・亡命の地  




「チェの家」からバス駅に帰るときに小さな看板で気づいたのだが、あの作曲家の「マヌエル・ファジャの博物館」が近くにあるということだった。
「博物館」とは彼の終の住処を記念しているものだった。
まさか彼がこんなところとゆかりがあるなんて、想像もしていなかった。
てっきり、あのグラナダのアルハンブラ宮殿の横の坂道にある家で亡くなったものだとばかり思っていたからだ。



博物館になっている家の前に来たら、巨大糸杉に出くわした。
巨大糸杉



マヌエル・ファージャの終の住処
ファジャの家・現博物館


巨大糸杉とこの家の配色(茶色と緑と青の空)はグラナダへの望郷の念を強く表している。
糸杉はアルハンブラ宮殿の横の彼の家の周りで常に目にしうる景観そのものだし、3色とは茶色は大地、緑は糸杉、青は澄み切った空の色。グラナダのタイルなどにみられるグラナダの基本色だそうだ。


マヌエル・ファージャの胸像
マヌエル・ファジャの胸像


受付でお金を払いなかに入った。


最初に入った部屋が「死の床」がそのまま展示されている部屋だった。
死の床




ベッドの上にプレートが貼られていた。
1946年の11月14日、マヌエル・ファージャはここに死す、と記されている。
死の床の上のプレート


フランコからのたびたびの帰国要請を無視して、
スペインには戻らずにここで死をむかえたということだった。


理由は親友だったガルシア・ロルカの死と関係している。
ファージャはファシストから追われていたロルカを匿っていたことがある。
右端がガルシア・ロルカ
右端にガルシア・ロルカが写っている

そうしたフランコ体制から逃れてこの地に亡命した。

亡命しながらも、門の横の巨大糸杉と「茶色と緑と青」の3色に彩られた家にこだわったグラナダへの拭い去れない望郷の念に、思わず憐憫の情を抱いてしまった。

category: アルゼンチン

tb: 0   cm: 0

ブエノスアイレス・サンテルモ地区  


この地区はスペイン統治時代の歴史的建造物が残っており、当時の石畳の道路がいまなお残っている。ボカ地区とともにタンゴ発祥の地ともいわれている。

コロニアルな建物群
サンテルモのコロニアルな建築物



サンテルモ地区の石畳
サンテルモの石畳




その中心にある安宿に滞在している。「ホテル・ボリバール」
Avenida Bolibar 887
ホテルボリバール




サービスなのか、3台もベッドのある部屋をシングル・ユースということになった。広々として気持ちがいい。4泊で850ペソ≒11,000円。シングルではネットで最安値だった。
シングルユースでこんな広い部屋を使わせてもらった




ホテルから歩いて数分のところにある「サン・テルモ市場」100年以上も前の建物。目の前に巨大スーパーの「Dia」ができて苦戦しているようだ。
1899年設立された由緒ある「サンテルモ市場」




市場のなかの八百屋ほかに肉屋もあったが、圧倒的に多いのは骨董屋だった。
市場の八百屋




その市場のなかにある食堂通路を挟んで左がキッチンで、右が食堂。
市場の中の食堂




注文したのは牛肉の煮込み料理。コメと豆が入っていた。リゾット風。60ペソ=780円。
リゾット風。肉と豆とコメの煮込み





客はワタスと同じ老人ばかりだ。
市場の食堂の客も同年輩ばかり





ホテルを出てすぐ角の「アコンカグア食堂」
アコンカグアはチリとの国境にそびえる6960メートルのアンデス山脈最高峰
アコンカグア食堂




赤ワインをコップで頼んだら、なみなみと注がれたのがきた。おつまみはポテトフライ。こちらもすごい量だった。
ワインはコップになみなみと注がれてきた。ポテトフライも多すぎ





ここの客も全部男性の老人ばかりだった。みょうな連帯感に心が和んだ。
「孤老食堂」
アコンカグアの客も孤老ばかりだった

スペインに比べアルゼンチンはアルコールが高い。大びんのビールも500円ほどするし、ワインもコップで300円ほどだ。客も値段のこともあるので、ちびりちびり舐めるように酒を飲んでいた。

街角ではゴミ箱をのぞき込む老人やホームレスの姿を目にする。
食堂の定食が1000円以上もするので、食堂はガラガラだ。
ピザの切り売りや1個が100円ほどのエンパナーダで昼食を済ませている勤め人たち。


ハンバーガーセットの値段に詳しくないのでわからないが、セットが90ペソということは1,170円ということになる。ひどすぎないか?
バーガーキングのお値段

円安を差し引いて1ドル100円としても、セットが1000円だ。また1ドルが9.5ペソという為替からみてもセットは10ドルになる。おそらく高すぎだと思う。
「マクドナルド指数」からみた、アルゼンチン経済の現状はどうなっているのか、だれか教えてほしいものだ。

アルゼンチンは急激なインフレに見舞われているそうで、物価がここ数年で倍ほどになっていると聞かされた。
地下鉄は2年前の3.5ペソが5ペソ、日本人食堂の昼定食が68ペソだったのが、120ペソになっている。(2014年版の地球の歩き方)
もしかしたら再び金融危機が起こるのだろうか?



アルゼンチンの経済についての解説記事。場末の宿に泊まり、安食堂で食事をしている自分とはずいぶん見方が違うが、アメリカのハゲタカ・ファンドが仕掛けた金融テロの解説として読むといい。
デフォルト国アルゼンチンに現代の「桃源郷」を見た
茶色の部分をクリックすると元記事が読める




自分が2007年に制作にかかわったドキュメンタリー番組。
内容は2001年の経済危機の後、立ち上がる労働者とそれを支えるアルゼンチンのロビンフットと呼ばれる弁護士の奮闘を描いたもの。

“回復工場”の挑戦~アルゼンチン・広がる連帯経済

Watch 「“回復工場”の挑戦~アルゼンチン・広がる連帯経済」 - FABRICAS RECUPERADAS in エンターテイメント  |  View More Free Videos Online at Veoh.com




category: アルゼンチン

tb: 0   cm: 0

ブエノスアイレス・宿を替える  




寒い!温度計を見たら3度だった。部屋に暖房があればいいのだが、全くない。
しかも年季が経った建物で、そこらじゅうから隙間風が吹き込んでくる。
ユニクロのヒートテックの長袖とパッチ、ダウンなどを着込み、それにセーターにジャケットと完全武装しているのだが、寒すぎる。
レセプションにヒーターを貸してくれないかと言いに行ったら、すげなく断られ毛布を渡された。

それでも、ネットがサクサクと動くので、我慢していたのだが、昨日から、そのネット環境も不調で全く繋がらない。
ついに、決断した。
「宿を替えよう」

昨日の朝、このサン・テルモ地区が気に入っているので、近辺で宿を探したら、安値で1泊がUsドルで22ドルというのがあった。
今いる「ホテル・ボリバール」から歩いて10分ほどの距離にある。
予約を入れたあと、下見に行った。
すると、看板も何もない普通の家だった。

Casita de San Termo
La Casita de San Termo 外観


表の呼び鈴を鳴らしても応答がない。
少し、不安になりながら、ホテルに戻ってメールで明日の11時にそちらに行くのでよろしくとのメッセージを残しておいた。
夜に、宿のオーナーから明日のその時間には待っているとの返事が届いた。



そして、今朝、約束の時間に再び訪れた。
呼び鈴を鳴らすと今日はちゃんと応答があり、ドアが開いた。
なかに入ると、不安を覆す光景が待っていた。

手入れされた中庭があり、すばらしい環境だった。
La Casita de San Termo 中庭




共同トイレというはずだったのに立派な部屋を提供してくれた。トイレ付き。家具付きの部屋
室内1




室内2




室内3.トイレ付き


ネットも部屋で十分つながる。
共同の台所も広いし申し分ない。
室内にはスチームが来ているので、暖房は問題なしだ。
これで1泊が22Usドルとは、今まででいちばん条件がいい。
うれしくなった。

La Casita de San TRermo 住所:Cochabamba 286 電話+5491165773442



<食いすぎで、せっかく痩せていたのがもとに戻りつつある>
サン・テルモ地区には観光客用と地元用と食堂がいっぱいある。
主流はイタ飯屋だ。アルゼンチンにはイタリア系移民が多いことと関係しているようだ。

2日続けて入った食堂。ここもイタリアレストランだが、日替わりメニューがあってイタリア料理以外の料理も出している。
持つ煮込みを食べた食堂




Mondongo。聞きなれない単語だが、昔、メキシコで食べたことを思い出した。文字通りのモツ煮込み料理でスペインでは「カージョ」というやつだ。あの内臓好きの壇一雄が出くわしていたら感涙していただろう、と思いひとり微笑んでしまった。
mondonga昔メキシコで食べた
スペインで食べている「カージョ」より臭みがなかった。




こちらはどちらかというと観光客専門の店。Parillaも出していた。
豚バラのオレンジソース煮を食したレストラン




豚バラのオレンジソース煮丸いのは小型のジャガイモ。
豚バラのオレンジソース煮
オレンジと蜂蜜のソースがなかなかいけるのだ。






category: アルゼンチン

tb: 0   cm: 0

ささやかな宴  



昨日は日曜日で、サン・テルモ地区のドレーゴ広場を中心に露店が所狭しと出店していた。骨董市などと言われているが、売っているものはそれこそありとあらゆるものだった。鞄からちょっとしたアクセサリー、古着から靴、骨董品などなんでもありだった。共通しているのは売りに出されているものが決して高くないということだ。泥棒市などと同じ範疇に入るのだろう。

日曜市1




日曜市2





このドレーゴ広場のすぐ横には、この地区の守護神の「サン・ペドロ・テルモ寺院」がある。
サン・テルモ寺院




誕生日のささやかなひとり宴
さて、このサン・テルモ地区だが、レストランがたくさんあると書いたが、驚くべきことに日本レストランが2軒もあるのだ。
1軒は以前訪ねて行って日曜日で閉まっていたといって紹介した日本人会館の中にある「ニッカイ」。
もう一軒は、ドレーゴ広場の近くにある「サンテルモ食堂」である。
こちらは近所をぶらぶら散歩して見つけたものだが、ホテル・ボリバールの従業員の話では寿司が「ニッカイ」よりうまいそうだ。

今日は誕生日ということで、その「サン・テルモ食堂」に昼定食の寿司を食べに行った。
サンテルモ食堂内部


ビールを注文したら、お通しがついてきた。
ビールを頼んだら、お通しが出てきた


定食は選択制で最初は、餃子、春巻き、冷ややっこなどから選べる。揚げ出し豆腐を頼んだ。
定食のひと品目は揚げ出し豆腐



2品目は寿司とか焼き魚とかとんかつが選択できる。寿司盛り合わせを選んだ。寿司だけ少し高く140ペソだった。
本番は寿司盛り合わせ
不思議に思ったのは海が近いのに鮭とマグロとメルルーサくらいしか入っていないことだった。市場でも魚売り場が貧相だった。アルゼンチン人はやはり肉だけなのかと偏見を再確認した。


小瓶のビールと白ワインの350ml瓶で少しいい気持になった。

ほろ酔いでホテルに戻ると、部屋の前に真っ黒な猫がいて、愛想よく体をこすりつけてくれた。

伸びをしてから近寄ってきた。
伸びをしてからこちらによって来た


なかなか正面からの写真を撮らせてくらなかった。
なかなか写真をとらせてくれない



category: アルゼンチン

tb: 0   cm: 0

アルゼンチンの日系人  



先日、今のホテルの下見に出た時のことだが、偶然、日系のひとに遭った。
何の気なしに歩いていたら、洗濯屋があったので、次回に洗濯物を頼めるかどうかを確かめるために
「ここはキロで洗濯をしてくれるのか?」と聞いた。
すると、オヤジさんは「下着とかは洗わないよ」と言って断った。

そのとき、はじめて気がついたのだが、オヤジさんの顔がアジア系だったのだ。
「中国のかたですか?」と聞くと、
「日本人だよ」との答えが返ってきた。
「へえっ、自分も日本人です。日本はどちらから?」
「沖縄、ナカグスク。ナカグスクわかる?」
「知っていますよ。中城と書くんでしょう」
それをきっかけに、ちょっとした立ち話をして別れた。

表にでて店を眺めて初めて「クリーニング店 TOKIO屋」と書かれていることに気づいた。
tokioという名のクリーニング店



今日、たまたま店の前を通ったら、中でアイロンがけしている姿が見えたので、声をかけた。
そういえば、この前、名前を聞くのを忘れていたので、自分の名前を名乗ってから、オヤジさんの名前を聞いた。
「伊波」という返事だった。
伊波さん
伊波さん


そして、こんなパンフレットをくれた。

日系社会の会報
日系人同士の交流などの記事が載せられていた。
日系社会の機関紙


そして、その中にこんな衝撃的な記事があった。
奴隷のことに触れた記事

日本人奴隷の謎を追って  400年前に南米上陸か?
[1] 亜国に残る裁判書類 1596年に売られた日本人
博覧強記で知られた故中隅哲郎さんの「ブラジル学入門」(無明舎、1994年)を読むと、1550年から1600年までの50年間の日本では戦火に負われた多くの難民、貧民がポルトガル人に奴隷として買われ、海外に運ばれていった。
(164頁)との記述に目をひかれた。驚くことに「アルゼンチンのコルドバ市の歴史古文書館には、日本人奴隷が売買された公正証書が残されている。(165頁)
さっそく『アルゼンチン日本人移民史』(第一巻戦前編、在亜日系団体連合会、2002年)を調べて見ると確かにある。
[2]小家畜か駄獣のように手足に鎖(4.10掲載)
1596年にアルゼンチンで奴隷売買された日本人青年に関し、『日本移民発祥の地コルドバ』(副題「アルゼンチン・コルドバ州日本人百十年史」大城徹三、1997年)には、「フランシスコ・ハポンという日本青年は、当時、日本との交易を頻繁に行っていた南蛮人(ポルトガル人)によって連れてこられたことが濃厚に示されている。また正式なスペインの航路を通らず、ブエノスアイレス港に入ってきたと推測できる、(15頁)とある。
前述の中隅さんの著書に「日本側には記録がないので解らぬが、ポルトガルには色々な記録が断片的に残されている」(114頁)とし、外交官でラテン・アメリカ協会元理事長の井沢実さんの『大航海夜話』(岩波書店77年)から次のような引用が紹介されている。
「インドのノーバ・ゴア発行の『東洋ポルトガル古事記』の中には、まだ翻訳されていない日本人奴隷関係の重要な史料が残されている。インドのゴアにはポルトガル人の数よりも日本人奴隷の方が多い。」
さらに、日本人奴隷は男より女が好まれ、その行き先はゴアを中心とする東南アジアだが、ポルトガル本国にも相当数入っている。しかし、当時日本にいたポルトガル宣教師は、同胞商人による日本人奴隷売買を酷く嫌がり、本国に取り締まりを要請したため、1570年9月20日にドン・セバスチョン王(原文のママ) は、禁止令を出したが効果はなかった」(165頁)
『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』(池本幸三/布留川正博/下山晃共著、人文書院、1995年、158~160頁)には次のような記述もある。
1582年(天正10年)、イエズス会員に伴われて、欧州を訪れた天正遣欧少年使節団の4人も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃し、驚愕した。
「我が旅行の先々で、奴隷の境涯に落ちた日本人を見たときには、小家畜か駄獣のように同胞を手放すわが民族へ、激しい怒りの念に燃え立たざるを得なかった。」「全くだ。我が民族中のあれほど多数の童男・童女や成人男女が、世界中の様々な地域へ、あんな安い値で売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか」といったやりとりが、この使節団の会話録に残されている。(以上、転載)





大戦中の処遇で、ほかの南米の日系移民とはすこし事情が異なったアルゼンチンの日系移民についての記述も参考に・・・

アルゼンチンの日系移民の歴史について(ウィキペディアより)


アルゼンチンに足を踏み入れた日本人で、最も古く記録されているのは、1597年に奴隷であることを不服として訴訟を起こし、解放を勝ち取ったフランシスコ・ハポンである[2]。
その後、19世紀になってから本格的な日本人の海外移民が始まった後、1886年に牧野金蔵が最初にアルゼンチンに移住し、日系アルゼンチン人第1号となった。その後、伊藤清蔵が、約8000haの富士牧場を経営する。20世紀にブラジル移民が解禁され、1908年に日本からブラジルに向けて移民船の笠戸丸が出港した際、780人の日本人内160人がブラジルのサントスに着く前にブエノスアイレスで下船した。その後第二次世界大戦までに、ブラジルやペルーやパラグアイといった他の南米諸国から少なくない数の日系人がアルゼンチンに再移住した。日系人はブエノスアイレスやその近郊で工場労働者や港湾労働者として働いた他、花卉栽培や洗濯業に従事し、地方で農業に従事する者も存在した。戦前の日系人の多くは沖縄県や鹿児島県の出身だった。
第二次世界大戦が始まった後、1943年に政権を握った統一将校団(GOU)の軍事政権は親枢軸と絶対中立を標榜しており、連合国との協調を重視した他のラテンアメリカ諸国よりも弾圧が少なかったことに加え、当時労働大臣となり労働者階級に大きな支持基盤を築いたフアン・ペロン将軍が親枢軸志向と親日的な傾向から日系人を重用したこともあり[3]、日本語教育や日系人の集会の禁止といった措置は採られたものの、アルゼンチンは1000を超える日系人人口を擁する国としては、ほぼ唯一の財産没収やアメリカ合衆国の強制収容所への追放(日系人の強制収容)などの大規模な弾圧の歴史を持たない国となった。
第二次世界大戦後、日本政府とアルゼンチン政府の協定により、100人規模の移民が続いた。1959年にはメソポタミア地方のミシオネス州に、1962年にはクージョのメンドーサ州に移住地が設立された。
しかし、その後のアルゼンチンが政治不安により、戦前占めていた先進国の一角としての立場を失い、一方で戦後日本の急速な経済成長やバブル景気による労働力不足の影響もあり、1990年の日本の入国管理法の改正以降、少なからざる日系アルゼンチン人が日本に「デカセギ」(es:Dekasegi)や逆移住を行い、日系コミュニティの空洞化現象が指摘されている。



昨日は誕生祝に「サンテルモ食堂」に行ったので、今日は「日本人会館」にある「Nikkai食堂」へ行った。12時開店のところを20分も前に着いたので、表のベンチに座って待っていた。
Nikkai食堂の入り口




「Nikkai食堂」の店内
nikkai食堂の店内



とんかつ定食 デカイ!揚げ具合もなかなかのものだった。
nikkai食堂のとんかつ定食


category: アルゼンチン

tb: 0   cm: 0

自炊に挑戦  



なかなか正面の写真を撮らせてくれない宿の黒猫。人懐っこくてよっては来るのだが・・・
宿の黒猫




毛が伸びすぎてさすがに鬱陶しくなったので、近くの散髪屋に行った。
散髪をした




髪を刈ってくれたリカルドは実はカメラマンでもある。facebookのアドレスを教えてくれた
散髪屋は実はカメラマンでもあった



Facebookに出ていた写真・・・きまってるね!
Ricardo






宿の台所
宿の台所



持参したコッフェルで米を炊いてみた
持参したコッフェルで米を炊いてみた




お焦げもできずにきれいに炊けた!
お焦げもできずにきれいに炊けた



メインはビーフステーキ
メインはステーキ




ワインは「サンテルモ」という名前のワインを買ってきた。原産地はメンドーサ。
ワインはサンテルモという名前のワイン
口当たりがよく、ほぼ4分の3本ほど飲んでしまった。





category: アルゼンチン

tb: 0   cm: 0