2017/08/25

散髪に出かけたら・・・

まだ夏休み中だった。
すぐ先の魚屋(Pescaderia)も夏休み中。
9月まで休みのようだ。
すごい!

082517どちらもまだ夏休み中






冷凍庫の残り物を処分していたら、なんと!

一年ものの鯖の味噌煮
冷凍庫の奥のほうに紛れ込んでいたもので、なんと昨年の9月に冷凍したものだった。
電子レンジで解凍して食したが、普通に食べられた。
驚き!

082417一年ものの冷凍した鯖の味噌煮


カレイの干物
こちらは2月前のものだった。
全く問題なし。

082417カレイの干物


ここまでが冷凍庫の整理。


人参葉の胡麻よごし
これは先日買った人参葉の残りだが、天ぷらにせずにそのままとってあった。
再度、胡麻よごし。

082417人参葉の胡麻よごし



フランクフルト炒め
ビアホールのおつまみを思い出して作ってみた。

082517フランクフルト










読み終えた本 宮本常一著「旅人たちの歴史2 菅江真澄」

宮本常一「菅江真澄」


菅江 真澄(すがえ ますみ、宝暦4年(1754年) - 文政12年7月19日(1829年8月18日))は、江戸時代後期の旅行家、博物学者。生まれは、三河国渥美郡牟呂村字公文(現在の豊橋市牟呂公文町)と伝えられる。本名は白井秀雄、幼名は英二といった。知之(ともゆき)、白超とも名乗った。は秀真、母は千枝か。吉田町札木の植田義方[注釈 1]に和学、和歌を学んだ。1770年頃から尾張藩の薬草園につとめ、1780年生家に戻った。その間丹羽嘉信について漢学・画技を、浅井図南から本草学・医学を修得した。各地をしばしば巡って紀行を執筆。一説には、これには植田義方というスポンサーがあり、彼が書いたものを本にして出していたともいう。1783年に30歳で故郷を出奔。刃傷などやましい事があったのではとも推測されるが、その理由は不明。故郷を離れてからも、郷里の知人に音信を知らせたりしているので、余程の事件があったものとは思えない。いずれにせよ、以来信越・東北から蝦夷地にいたる長い旅を重ねる。享和元年(1801年)に再度の秋田入りをした際には白井真隅と名乗ったが、文化7年(1810年)の日記『氷魚の村君』(ひおのむらぎみ)からは菅江真澄と名乗っている。
旅先の各地で、土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残す。今日で言う文化人類学者のフィールドノート(野帳)のようなものであるが、特にそれに付された彼のスケッチ画が注目に値する。彩色が施されているものもあり、写実的で、学術的な記録としての価値も高い。彼は本草学をもとにして、多少の漢方の心得もあったという。著述は100種200冊ほどを数え、「菅江真澄遊覧記」と総称されている。この名前で平凡社の叢書・東洋文庫に収録され、2000年以降、同社の平凡社ライブラリーから5巻本として刊行されている。形態は日記・地誌・随筆・図絵集などとなっているが、内容は民俗・歴史・地理・文学・考古・宗教・科学など多岐にわたっており、特に近世後期の民衆の生活を客観的に記していることに特徴がある。
(ウィキペディアより抜粋)




読後感
特に印象に残った箇所を一箇所だけあげるとなると・・・

★天明の大飢饉に触れた箇所である。
飢えた人々は先に倒れた人に手を出していたのである。
つい先日も高木俊朗さんの「インパール」で、飢えた兵士が他の兵士の屍体を食べたという話を読んだとこなのに、またもやこの話・・・・
以前読んだ大岡昇平の小説では、人肉の味が「ボール紙」のようだと書かれていたが、今回は耳や鼻をよく食べたとの告白を知ってしまった。(つまり、耳と鼻は食べられる味ということ?)
絶句!




天明三年の飢餓のことがでてきます。(P74)

鯵が択から内闘の方へ入っていくと浮田という所があります.それから岩木山の山麓の北の端の所に床前という所がある.その
卵之木、床山〈西津軽郡森田村)といふ村のこみちわけ来れば、主のむり消え残りたるやうに、草むら
に人のしら骨あまたみだれちり、あるは山高くつかねたり。かうべなど、まれびたる穴ごとに、薄、女
館花の生出たるさま、見るここちもなく、あなめ、あなめとひとりごちたるを、しりなる人の間て、見たま
へや、こはみな、うへ死たるもののかばね也。過つる卯のとし<天明三年>の冬より辰の春までは、雪
の中にたうれ死たるむ、いまだ息かよふも数しらず、いやかさなりふして路をふたぎ、行かふものは、
ふみこへふみこへふみこえヘて通いしかど、あやまちては、夜みちタぐれに死むくろの骨をふみ折、くちた
れたる腹なとに足ふみ入たり。きたなきにほひ、おもひやりたまへや。このうへたすからんとて、いき
馬をとらへ、くびに綱をつけてうっぱりに曳きあげ、わきざし、或小刀をはらにさし、さきころし、血の
したたるをとりて、なにくれの草の根をにてくらひたり。あら馬ころすことを、のちのちは、馬の耳に
たぎり湯をいれてころし、又頭より縄もてくくり、いきつきあへず、すなはち死うせ侍りき。その骨
どもは、たき木にまぜたきてけぶりをたて、野にかける鶏犬をとリくらひ、かかるくひものも尽て侍れば、
あがうめる子、あるははらからつかれしに、亦、ゑやみに死行侍らんとするともがらあまたあるを、
いまだ、いきのをたえさなるを、わきざしをたて、又はむねのあたりくひやぶりて、うへ(飢)をしのきぬ。
人くらひ侍りしものをば、くにのかみ(藩主)に命めきれ侍りき。人の肉はみたるむの、眼は狼のごときに
光きらめき、馬くらひたる人は、なべて顔色悪く、いまも多くながらへて村々に在りけり。

まだこの先に同じような話が出て来るのです。

ところが真澄が信濃国を出る時に、天明四年に出るわけなんですが、もう東北地方はたいへん豊作
だという噂を聞いて発っているんです.しかし、四年をすぎて五年ですが、現実に行ってみると、
その頃の東北の状態がどんなに陰惨なるのであったかが、この記事でわかるわけですね。
それで途中で会った人に種々聞いてみると、

われらは馬をくらひ人をくりひて、からき命をたすかりつれど、又此とし吹たる風にあたりて、
いな穂かかまず(実らないで)むかしの陪堂となりて侍る。(陪堂ホイトウ=乞食)

という、馬や人を古食ったというのは真実なのかと問うと、

人もたうび侍りしが、耳鼻はいとよく侍りき、うまを搗きて餅としてけるは、たぐひなううまく侍る。
しかはあれど、あらぬくひものなれば、ふかくひめて露、人にかたらず侍るは、いまに至りても、あなき
たなとて、つふね、やたこ(奴〉にもめし給う人なければ、男女なべて、かくし侍る。たうときかたに
まうで侍る旅人、すけには、かいけ〈改悔〉さんけ(懺悔〉して、つみもほろびなんとおもひ、ありしまま
にもらし侍る。

といって真澄に話している。つまり話すことによって自分の罪が許されるのじゃないかと。









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