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2018/07/22

「方丈記」の時代と今があまりにも似ている・・・


異常気温!

猛暑 京都市、1週間連続38度超 祇園祭・山鉾巡行、ペットボトルOKに 見物、無理しないで… /京都
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大水害

京都)住宅の浸水被害 府まとめ
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大地震

大阪北部地震で、京都の中心地でも震度5だった。
大阪北部地震 京都・滋賀の詳しい震度
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こうした大災害が連続して起こっている。


平安末期の京の様子を描いた「方丈記」でも、同じように大災害が続き、その過酷な様子が取り上げられている。

(以下、ウィキペディアを引用しています。元の文章を引用してもいいのですが、面倒なので、こうしました。すみません。)

大火災(安元の大火)
安元3年4月28日(1177年5月27日)午後8時頃、都の東南(現在のJR京都駅付近か)で、舞人の宿屋の火の不始末が原因で出火した。火はまたたく間に都の西北に向かって燃え広がり、朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などが一夜のうちに灰燼に帰した。公卿の邸宅だけでも16軒、一般家屋に至っては都の3分の1が焼失した。

竜巻(治承の竜巻)
治承4年(1180年)4月、中御門大路と東京極大路の交差点付近(現在の京都市上京区松蔭町、京都市歴史資料館の辺りか)で大きな竜巻(長明は「辻風」と記述)が発生した。風は周囲にあるものをあっという間に飲み込み、家財道具や檜皮、葺板などが、あたかも冬の木の葉のように宙を舞った。風の通ったあとには、ぺしゃんこに潰れたり、桁や柱だけになった家が残された。竜巻は市街地を南南西に向かって走り抜け、現在の東本願寺の手前辺りで消滅したものと思われる。

飢饉(養和の飢饉)
養和年間(1181-82年)2年間にわたって飢饉(養和の飢饉)があり、多くの死者が出た。旱魃、大風、洪水が続いて作物が実らず、朝廷は様々な加持祈祷を試みたが甲斐なく、諸物価は高騰し、さらに翌年には疫病が人々を襲った。仁和寺の隆暁法印が無数の餓死者が出たことを悲しみ、行き交うごとに死者の額に「阿」の字を書いて結縁し、その数を数えたところ、養和2年4月・5月の左京だけで、42,300人余に達したという。
などが続けて起こったことが描かれている。

大地震(元暦の地震)
元暦2年7月9日(1185年8月6日)、大きな地震が都を襲った(文治京都地震、地震の年表#日本参照)。山は崩れ海は傾き、土は裂けて岩は谷底に転げ落ちた。余震は3か月にもわたって続いたという。



ここがエキス!おごれる権力者!

そうした指摘の後に、鴨長明は、天災に加えて、時の権力者である「おごれる平家一門」の我欲・腐敗ぶりが事態を一層、悪くしていると指摘している。(ゆるくだが・・・)
同じように現在も、「おごれる安倍一味」による腐敗・縁故主義が大手を振ってはびこり、国力は急速に衰退している。

あまりの同質性に驚いてしまった。

ところで、「方丈記」は青空文庫で読めます。
古語で書かれた文章が読みづらいなら、こんな朗読もあります。




もっといいのは、こちらです。こちらは堀田善衛「方丈記私記」の著者による解説にもなっています。





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