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2018/11/07

「チャタレー夫人の恋人」と「ウィガン波止場への道」

先日読んだジョージ・オーウェルの「ウィガン波止場への道」と、この「チャタレー夫人の恋人」の舞台が重なっているので、読んでみることにした。


チャタレイ夫人の恋人 伊藤整訳


新潮社版
森番のメラーズによって情熱的な性を知ったクリフォード卿夫人――現代の愛の不信を描いて、「チャタレイ裁判」で話題を呼んだ作品。

内容(「BOOK」データベースより)
コンスタンスは炭坑を所有する貴族クリフォード卿と結婚した。しかし夫が戦争で下半身不随となり、夫婦間に性の関係がなくなったため、次第に恐ろしい空虚感にさいなまれるようになる。そしてついに、散歩の途中で出会った森番メラーズと偶然に結ばれてしまう。それは肉体から始まった関係だったが、それゆえ真実の愛となった―。現代の愛への強い不信と魂の真の解放を描いた問題作。発禁から46年、最高裁判決から39年。いま甦る20世紀最高の性愛文学。約80ページ分の削除箇所を完全復活。



ご存知ですか? 3月13日は「チャタレイ裁判」最高裁判決の日です わいせつと芸術、そして伊藤整という文学者
青字部分をクリックすると元の記事へジャンプする。


本当はこの伊藤整訳の新潮社版を読みたかったのだが、電子書籍版がないので、今回は光文社古典新訳のKindle版を買って読んだ。タイトルだが、伊藤整訳では「チャタレイ夫人の恋人」と訳されているが「こちらでは「チャタレー夫人の恋人」となっている。


チャタレー夫人の恋人


あらすじ
炭坑の村を領地に持つ貴族の妻となったコンスタンス・チャタレイ(コニー)だったが、蜜月もわずかなままに、夫のクリフォード・チャタレイ准男爵は陸軍将校として第一次世界大戦に出征、クリフォードは戦傷により下半身不随となり、復員後は2人の間に性の関係が望めなくなる。その後、クリフォードはラグビー邸で暮らしながら作家としてある程度の名声を得るが、コニーは日々の生活に閉塞感を強めていった。

クリフォードは跡継ぎを作るため、コニーに男性と関係を持つよう勧める。その相手の条件とは、同じ社会階級で、子供ができたらすぐに身を引くことができる人物であることだった。コニーは、自分はチャタレイ家を存続させるためだけの物でしかないと嘆く。そんな彼女が恋に落ち男女の仲になったのは、労働者階級出身で、妻に裏切られ別れ、かつて陸軍中尉にまで上り詰めたが上流中流階級の周りになじめず退役し、現在はチャタレイ家の領地で森番をしている男、オリバー・メラーズだった。

メラーズとの秘密の逢瀬を重ね、性による人間性の開放に触れたコニーは、クリフォードとの離婚を望むようになり、姉のヒルダと共にヴェニスを旅行中、メラーズの子供を妊娠していることに気がつく。一方領地では、戻ってきたメラーズの妻が、メラーズとコニーが通じていることに感づき、世間に吹聴して回っていた。メラーズは森番を解雇され、田舎の農場で働くようになる。帰ってきたコニーはクリフォードと面談するが、クリフォードは離婚を承知せず、コニーはラグビーを去ることになった。wikipediaより抜粋







ジジイの雑感・・・思いつくまま

この本を書こうとしたローレンスの当初の狙いとは・・・
情愛小説だの最高の恋愛小説だのという評価が一般的だが、ローレンスは、この小説で当初意図していたのは、自らの出身地であったイギリス中部の炭鉱地帯の悲惨な状況※を描くことだった。(※イギリスの炭鉱労働者の悲惨な状況は、オーウェルの「ウィガン波止場への道」で、詳しく書かれている。)
1926年の炭鉱労働者のストライキなどの背景にあるイギリスの身分社会・階級社会を問題視したのである。第1稿では、階級問題を正面から取り上げた内容だったという。

なぜ、彼がそうした視点に立ったかというのは、彼自身が炭鉱労働者の子供であったという事実からきている。

森番「メラーズ」はローレンスの分身
だと、オーウェルが「ウィガン波止場のへ道」の第Ⅱ部で述べている。

労働者階級の出身でありながら、軍隊では中尉にまでなり中流階級の仲間入りをしたが、馴染めずにその地位を捨てて「森番」をしているメラーズに、同じく労働者階級の子弟でありながら、奨学金をえて大学まで進み、中流階級入りしたローレンスは、自分を重ねているのである。
(ローレンスは、メラーズと同じく夫のある婦人と駆け落ちしている。)

メラーズが「コニー」に打ち明ける自らの主義や主張は、ローレンスの社会観・世界観、そのものだというのである。

そのローレンスの社会観・世界観とは

例えば、ある意味で「男根崇拝」ととられかねない描写や「貴族は『玉なし』」だと侮蔑する発言の中にも、階級社会への指弾の意味を塗り込めているのだ。性的描写を借りながら、それを切り口に階級社会や支配階級への批判を行っているのである。

また、同時に自らの出自である労働者階級にも、その若者たちは、休日になると遊び呆けていて、消費社会にのめり込んでいると批判している。「遊び呆ける」労働者というイメージは、「長距離ランナーの孤独」で知られるアラン・シリトーの「土曜の夜・日曜の朝」という小説に描かれている。ちなみにこのアラン・シリトーも同じく労働者階級の子弟である。(今思うに、この本の訳者である故永川玲二さんに、この辺のことを聞いてみたかった。アラン・シリトーが中流階級の奥さんをもらって、恐妻家になっていたとの話は聞いたが・・・)

「反大量生産・反大量消費」といった「反資本主義」的主張とそれを実践する生き方として、メラーズは清貧さこそが大事だと述べている。そうした意味で「森番」での暮らしは、彼の主張にぴったり沿ったものだったのである。本の最後でコニーに当てた手紙で、薄給で働く自らの農夫としての生活に満足している様子が描かれているが、これこそがローレンスのいう「清貧な暮らし」である。

そうそう、最後に清貧な暮らしの中には、虚飾の愛ではない本物の情愛があるのだそうです。


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